1459人が本棚に入れています
本棚に追加
/61ページ
ダイニングテーブルにトマトのリゾットと温野菜のサラダとほうれん草のクリームスープがきれいに並べられ、明は驚いて狐高を見上げた。
「狐高さん、なんでもできるんですね……」
仕事も完璧なのに料理も出来るなんて、自分とはあまりに出来が違い過ぎて嫉妬を通り越して尊敬してしまう。
「出来るようにしたんです。あの人の隣に並べる存在になりたくて、自分を引き上げたんです。ですから、あなたもこのくらいは出来るようにならなきゃ駄目ですよ」
「え、ええ……ここまでは……」
明が眉を下げて言うと、狐高がこちらにきつい視線を送る。
「私以下の方に社長はお任せできません。気概だけでも見せていただかないと……私も本気を出しますよ」
いいんですか、と言われ、明は大きく首を振った。
確かに自分は不器用で何もできない。けれど、できないのと、やろうとしないことは違う。狐高が言っているのはそういうことだろう。優の傍に居て、それは幾度となく感じてきたことだった。出来なくてもいい、けれど初めからやろうとしないのは良くないこと――それは明にもよく分かる。
「……後で、作り方教えてくれますか?」
「……うさぎごときに出来るかは怪しいですが、お教えしましょう」
社長のためですからね、と狐高が大きくため息を吐く。でもそれはもう怖くもなんともなくて、明は笑顔で、おねがいします、と返した。
「とにかく、今は食べてください。後片付けが出来ないので」
狐高がそう言ってキッチンに戻ろうとした、その時だった。インターホンが部屋に鳴り響き、二人とも動きを止める。
「私が出ます。兎田くんは食事の続きを」
狐高はそう言ってからインターホンに対応する。はい、と狐高が出ると、一瞬の間が空いた後、『兎田くん?』という声が部屋に響いた。
明の手が震え、スプーンがテーブルに落ちる。間違いない、これは永兎の声だ。
明が狐高に視線を送ると、狐高もこちらを見ていた。それからひとつ頷く。
「……どうぞ」
それだけ言ってインターホンを切った狐高が明の傍に寄る。それから真剣な目で口を開いた。
「食事中ですが、寝室にでも隠れていてください。彼のことは私に任せて」
「え、どういう……」
明が狐高の言葉に動揺したまま立ち上がる。すると、すぐに今度は玄関のインターホンが鳴る。狐高はそれに応えるように玄関へと向かった。
狐高は隠れていろと言ったが、やはり気になった明はリビングのドア付近からそっと玄関を覗き込んだ。狐高の背中が玄関にたどり着き、その向こうでドアが開く。
「……あの、兎田くんは……今日もお休みと聞いて、こちらに来たんですが……」
玄関で応対に出たのが狐高で驚いたのだろう。永兎は途切れ途切れにそう話した。それを聞いていた狐高が、そうですか、と一歩下がる。永兎が玄関のたたきに上がり、ドアが閉まる。
「兎田くんは体調不良で休んでいます。私は彼の世話を社長から任されています。……意味が分かりますか?」
狐高がそっと永兎に聞く。遠くてよく見えないが、永兎が首を傾げた仕草は見てとれた。
「そうですか……では、もう少し分かりやすく言いましょう――これ以上あの子に近づいたら、私があなたをかみ殺しますよ」
それまで穏やかだった狐高の声音が一気に低く鋭くなる。それと同時に狐高の頭には茶色の三角の耳、後ろには大きな尻尾が出現した。放つ空気はピリピリと痛い。
永兎もその空気を感じているのだろう。後退りをして、ドアを支えに立っているのがやっとのようだ。
「き、きつ、ね……!」
「ええ……うさぎなんてひと噛みですよ」
狐高の言葉に、永兎がその場に座り込んでしまう。恐怖で腰が抜けたのだろう。明だって狐高にきつねだと脅されて逃げ出したことがあるから、気持ちは分かる。
「わ、わかりま、した……もう、ここには来ません」
「ぜひ、そうしてください。社内でも接することのないよう、お願いします」
狐高はするりと耳と尻尾をしまい、永兎に手を差し出した。永兎はそれを掴むことなく立ち上がる。
「わ、わかりました! 失礼します!」
そう言って思い切り頭を下げた永兎は、震える手でドアを開きそのまま部屋を出て行った。それを見送ってから狐高がこちらを振り返る。
「……隠れていてくださいと言ったはずですが」
眼鏡の奥の目が鋭くこちらを見つめる。明はそれに苦く笑って口を開いた。
「すみません……でも、気になって……」
そう答えると、狐高が大きなため息を吐く。
「彼があなたの存在に気付かなかったからよかったですが、こういう時は言いつけを守っていただきたいです」
全くこれだからうさぎは、と文句を言っている狐高に、明は頷く。それから大きく頭を下げた。
「はい……あの、ありがとうございました!」
そう言い切ってから明は顔を上げる。視線のぶつかったその顔は、少し紅潮しているように見えた。驚いたその表情は一瞬で、すぐに視線を逸らされ、いつもの怜悧な狐高の表情になる。
「勘違いしないでください。これはあなたのためではなく、社長のためです。社長の憂いをひとつでも晴らすのが、秘書の仕事です」
だからこれも仕事です、と狐高がキッチンに向かう。そのまま洗い物を始めた狐高の様子を見て明は、はい、と頷いた。
「食事、冷めてしまってますね。温め直します」
「え、いいです。このまま食べます」
明は再びダイニングチェアに落ち着き、スプーンを手に取る。けれど狐高がそれを制した。
「冷めた食事を出しただなんて知れたら社長に怒られます。それに……体調の悪い時は温かいものを食べた方がいい」
怒られるなんて言うけれど、優はこんなことで怒ったりしない。狐高はきっと自分を心配してくれているのだろう。その気持ちが嬉しかった。
あんなに苦手だったのに、今は狐高にその気持ちは持っていなかった。むしろ、頼れる上司に見える。
「……ありがとうございます、狐高さん」
明が素直に言って微笑む。狐高はそのまま無言で明の目の前にあった皿を取る。
「……きちんとお礼が言える、それだけは素晴らしいと思いますよ」
狐高は呟くようにそれだけ言うと、キッチンへと戻っていった。その様子を呆然と見ていた明が次第に笑顔になる。
初めて狐高に褒められたのだ。嬉しいに決まっている。
「はい!」
大きな声で答えると、うるさいですよ、と狐高がぴしゃりと返す。
けれどもうその言葉が怖いとは思わなくなっていた。
最初のコメントを投稿しよう!