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「それに、彼女が教えてくれたのは、『レナ』という名前だけだった。どの道、俺ともう一度会う気はなかったんだよ」
寂しそうに、ユキくんが目を伏せる。それからポツリと、一つの言葉を呟いた。
「スワンソング」
「えっ?」
脈絡のない言葉に首を捻っていると、彼が続けた。
「彼女が言ったんだ。今日は自分にとっての『スワンソング』だって」
スワンソングというのは、シューベルトの「白鳥の歌」を指すのだろうか。そうだとしても、玲奈がどんな意味を込めて言ったのかわからなかった。
「その時は俺も知らなくて、後で調べた。ヨーロッパでは、白鳥は死の間際に最も美しい声で鳴くという伝承があるんだって。そこから、人生で最高の作品を亡くなる直前に作ることやその作品を『スワンソング』と呼ぶんだよ」
ユキくんと過ごしたひと時。それを「スワンソング」と表現した玲奈の気持ちを想像すると、ぎゅっと胸が締め付けられた。玲奈にはいつも“終わり”が見えていた。どんなに楽しいことがあっても、影のように逃れられない枷になっていたのだろう。それでも、人生最高の日だと思える時間を過ごせたことは、きっと彼女の救いになったはずだ。ポーランドから帰国した後、玲奈は吹っ切れたようにさらに明るくなった。
「玲奈の言葉は、本心だったと思う。家族としては、ユキくんに『ありがとう』って言うべきなのかもしれないけど……」
「けど?」
ユキくんが不安そうに瞬いて、先を促す。
「ちょっと悔しいかも。玲奈の一番は、何でも私が良かった」
いたずらっぽく笑いながら言うと、ユキくんも少し笑って、申し訳なさそうに眉を下げた。
「俺にとっても、あの日は特別だった。誰にも話したことはないけど、彼女のおかげで優勝できたと俺は思ってる」
玲奈とどんな時間を過ごしたのか、ユキくんは詳しく語らなかった。本音を言えば気になる。でも、知らなくても良いと今は受け入れられる気がした。玲奈が大切にしまっていた思い出なら、秘密のままの方がいい。
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