6.私のための小夜曲

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 深く考えず部屋の入口から覗き込んだ私は、“それ”を見て、はっと息を呑んだ。私は今、夢の中にいるのかもしれない。楽しいクリスマスパーティー、優しく迎えてくれたカヤさんや匠斗さん、溢れる音楽……。そして、今私の前にある、ピアノ。それは、もう再び会うことはできないと諦めていた、祖母の「ザウター」だった。  一歩、二歩と近づくと、祖母の部屋の懐かしい匂いが蘇ったような気がした。ああ、確かにあのピアノだ。ところどころニスの剥げた表面も、鈍く光るペダルも。  言葉を失っている私の横に、寄り添うようにユキくんが立った。 「知り合いの伝手で調べてもらって、フィリピンの小学校にあることがわかったんだ。でもどこの学校かまではわからなくてね。無事見つかったのは、その“タヌキ”のおかげだよ」 「タヌキじゃなくてクマだってば」  玲奈の代わりに抗議すれば、そうだっけとユキくんがとぼける。ともかく、この特徴的な絵が手がかりになって見つかったのだろう。玲奈が私の元に届けてくれたのだ。 「それで事情を話したら、ピアノを交換してくれることになって。昨日ようやく届いたから伝えようと思っていたんだけど――」 「……ごめんなさい」  思わず赤面して顔を覆う。突然泣き出したり怒ったり、ピアノが戻ってきたというニュースを伝えに来たはずなのに、ユキくんも戸惑っただろう。けれど彼は私を責めることなく、満足そうに言った。 「今日こうしてお披露目できたから、それで充分」 「でも、替えのピアノを用意したり輸送したり、かなりお金がかかったんじゃない? すぐには無理かもしれないけど、ちょっとずつでも――」  ユキくんは私の言葉を遮るように、首を振った。 「いいんだ、俺がやりたくてやったことだから。俺は、小夜さんの居場所を作りたかった。家で心が休まらなくても、この工房を一息つけるような場所にしたかった。だから、このピアノを手に入れるのは俺のためでもあったんだよ」  ユキくんと出会ったころ――もうずいぶんと昔に感じられるけれど、まだほんの数か月前だ――私には心の休まる場所がなかった。家に帰れば母がいるし、会社に親しい同僚がいるわけでもない。重い話を相談できる友人も恋人もいない。息が詰まる日々だった。それが、「トッカータ」を訪れて一変した。海の底から浮上して息継ぎをするように、気づけば毎週工房を訪れていた。
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