6.私のための小夜曲

17/17
28人が本棚に入れています
本棚に追加
/122ページ
「ありがとう、ユキくん。ピアノのことも本当に嬉しいけど……でも、とっくにここは私の居場所だよ」  涙混じりの私の言葉を、ユキくんは穏やかな顔で聞いていた。  今度は私が彼の手をそっと引いて、二人並んでピアノの前に立つ。 「ねえ、弾いてみて。あの頃と同じ音は、もう鳴らないかもしれないけど」  ユキくんは懐かしむように「ザウター」を一撫でして、蓋を開けた。ゆっくりと椅子に腰かけると、深呼吸を一つ。  すっかりくすんでしまった白鍵に彼の指が触れたその時、一つの光景が甦ってきた。しゃがみ込んで塀に張りつき、耳を澄ませていた玲奈の姿。いつでも一緒だったあのころ。何もかもが輝いていて、だからこそ思い出すことはつらかった。そのうち、あんなに好きだった「アマデウス」のピアノの音も、思い出せなくなってしまった。  でもそんな日々も、今日で終わる。ずいぶん遠回りしたけれど、きっとここからが新たな一歩だ。ちょっと気取って言うなら、第二楽章。どんな音楽が始まるのか、誰にもわからない。母との関係はギクシャクしたままだし、父との距離も離れたまま。家族はバラバラだ。それでも、今は希望があるような気がしている。 ――小夜は、小夜のままでいいんだよ。  降ってくるように響いた玲奈の声に、ハッと息を呑んで辺りを見回す。声は私の内側からではなく、どこか違うところから聞こえた気がした。 「小夜さん、曲のリクエストは?」 「えっと、何がいいかな――」  セレナーデは好きだけれど、玲奈と同じじゃつまらない。“私”が好きなものを、これから探していこう。ユキくんと一緒に、この場所で。  お帰り、「私」。懐かしい音に包まれて、私は一歩ずつ、私へと戻っていく。
/122ページ

最初のコメントを投稿しよう!