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プロローグ
「あっ、来た!」
つま先立ちで塀の向こうを窺っていた玲奈が、声を弾ませた。
「しーっ、聞こえちゃうよ」
私は慌てて玲奈の袖を後ろから引っ張る。玲奈は私を焦らすみたいに、しばらくしてから頭を引っ込めた。二人で塀の陰にしゃがみ込んで、笑みを交わす。吐いた息が白く混ざり合った。
「受け取ってくれるかなあ」
「大丈夫だって。女子からのチョコが嬉しくない男子なんていない!」
玲奈は胸を張って断言する。確かに可愛くて人気者の彼女からだったら、みんな喜ぶだろう。
「でも、『アマデウス』は私たちのこと知らないよ。知らない人からのチョコなんて気持ち悪いと思うかも」
「うーん……まあそこはさ、おばあちゃんがどうにかしてくれるって」
玲奈はどこまでも楽観的だ。羨ましくもあり、ハラハラすることもある。
「ほら、ドアが開いたよ。レッスンが始まる」
今度は玲奈が、人差し指を唇に当ててしーっ、と言った。
やがて、祖母が生徒を招き入れる陽気な声が聞こえてきた。祖母の家は私たちの家の隣で、ピアノ教室を開いている。私たちも通っているけれど、今日はレッスンのない金曜日だ。それなのに狭い庭の塀に張りついて聞き耳を立てているのは、さっき話に出た「アマデウス」が関係していた。
「アマデウス」はもちろん、彼の本当の名前ではない。私たちが勝手につけたあだ名だ。祖母に聞けば名前を教えてもらえるかもしれないけれど、私たちだけの秘密の合言葉にわくわくしていたから、知らないままでも良かった。
息をひそめて待っていると、ピアノの音色が聞こえてきた。まずは指慣らしのハノン。味気ないはずの旋律が、小川のように美しくさらさらと流れているように感じられた。一つ一つの音は、陽の光を受けた水面みたいにきらきらしている。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。音楽に詳しくない人でも名前ぐらいは知っているし、彼の曲を一度は耳にしたことがあるだろう。五歳から作曲を始め、数々の傑作を残した天才。子供の頃は「神童」と呼ばれたという。今ピアノを弾いている彼に相応しいというか、それ以外に思いつかないくらいピッタリのあだ名だ。私たちは寒さも忘れ、彼の奏でるピアノに聞き入った。
三十分のレッスンはあっという間に終わって、ネイビーのダッフルコートにチェックのマフラーを巻いた「アマデウス」の後ろ姿が見えた。メトロノームみたいに一定のリズムで、足を運んでいる。玲奈と二人並んで、彼が角を曲がるまで見送った。
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