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◇
その頃テノチティトランでは、トシュカトルの大祭のための準備が始められていた。トシュカトルはナワトル語で乾きを意味し、雨乞いの祭りだ。この時期に雨がないと作物が育たないため、トシュカトルの大祭は大切な意味を持つ祭りだった。
当然、祭りには生贄が必要だ。この祭りは特別で、一年前から生贄が選ばれていた。一年かけて身を清められ、神と同化させ、その上で散ることこそが大事だとされていたのだ。しかしもちろん、この生贄をコルテスたちは禁じていた。モクテスマは渋々と言った様子ではあったがその条件を飲み、その上で祭りを開催することになった。その他にも、ウィツィロポチトリの神像を大神殿に掲げることも、戦士が武器を携行することも禁じた。
それでも日に日に、街は活気づいていった。
「華やかね」
「ええ。市にも様々な装飾具が売られ始めていますから」
テクイチポが微笑む。昼日中には、連れ立って外を見下ろすことが多くあった。テクイチポは未だアシャヤカトルの宮殿に住んでいたので、実質〈蛇の家〉ことモクテスマの宮殿は空の状態だった。アシャヤカトルの宮殿には外に張り出た見晴台があり、二人はよくそこに並んだ。ここのところディアナとはなんとはなしに疎遠になりがちだったので、マリンチェにとってテクイチポは大切な友となりつつあった。
街からは太鼓や笛の音とともに歌声も響いている。大祭に向かっての練習だろう。懐かしさも相まって、マリンチェには心地よく聞こえた。テクイチポも楽しげに笑っている。犠牲者の出ない祭りなら、心の底から楽しめるからだろう。
「耳障りだな」
吐き捨てるような声が割り込んできて、マリンチェは顔をしかめた。振り返ると、ペドロが苛立ったような顔でこちらを睨んでいる。
「何よ偏屈。音楽が気に入らないの?」
「はっ。これが音楽だと? 理論も何もないただの騒音にしか俺には聞こえぬがな」
「貴方の価値観がその程度だということでしょう。愚かね」
嘲笑うペドロに、マリンチェもたまらず反論した。何度顔を合わせても、どうもマリンチェはペドロと気が合わなかった。ペドロは冷ややかな視線を向けるだけ向け、部屋を出て行った。怯えたテクイチポがマリンチェの背後に隠れてしまう。
「あー、もう! 何なのよあの男!」
「怯えておられるように見えます」
ぽつりと、テクイチポが漏らした。
「……怯えている?」
「コルテス様がいらっしゃらないからでしょうか。慣れない環境ですものね」
テクイチポはペドロが去った後を見つめて言った。マリンチェは嘆息を飲み込んだ。怯える気持ちは判らなくもなかったからだ。
「面倒なことにならなきゃいいけど」
「早く帰って来られるといいですわね。コルテス様も、アギラール様も。ね?」
含みのある笑顔を向けられ、マリンチェはちょっとだけ膨れてみせた。
◇
トシュカトルの大祭は、そんな中当日を迎えた。
エスパニャ軍の中からは、自分らこそ生贄にされるのではないかという不安の声も上がったが、マリンチェはそれをありえないことだと説き伏せて回った。しかし、ある報せから事態にきな臭さが濃く漂いはじめた。捧げないと約束されたはずの生贄が、用意されていたのだ。
「生贄とされるであろう青年が一人、すでに祭りの準備に入っています。ウィツィロポチトリの神像も大神殿の裾に置かれており、間もなく引き上げられるかと」
使いの報せに、ペドロはいきり立った。即刻祭りを中止させるべきだと何人かの兵を集い始めた。
「待ちなさい! 何かの誤解でしょう!? 話せば――」
「そうでなければどうするつもりだ!」
たたきつけられた怒声に、マリンチェは息を呑んだ。
「このテノチティトランの留守は今、このペドロ・デ・アルバラードが受け持っている。過ちなどあってはならん。それにどうだ。ここ数日の貴様らアステカの民の異様な興奮状態は! 薬をやり、踊り狂い、何が神だ! 血を求める悪魔を崇めようとしているだけだろう!」
「なにを――」
「ここの者達はこの機に乗じて我らを贄に捧げようとしている。違うか!」
「そっ――」
言い返そうと口を開いたが、マリンチェに続けられる言葉はなかった。混乱した脳では、まともな反論など出て来なかった。
ペドロはすぐに大神殿広場へと向かった。マリンチェは慌てて追いすがったが、ペドロは聞く耳を持たなかった。
大神殿広場には三つの門がある。広場には篝火が焚かれ、香が漂い、プルケ酒の香りも混じっていた。まさに祭りが始まろうとしているところだった。ペドロは幾人かの兵をそれぞれの門の前に立たせ、自身は民衆の中に割り込んでいった。
「やめなさい、落ち着きなさい! 変な気を起こすんじゃないわよ!」
腕にすがったが、乱暴に振り払われた。体制を崩したマリンチェの耳に、一層大きくなった歓声が届いた。顔を上げると、人々が踊り始めていた。歌い、踊り、騒ぎ、楽器が鳴り響く。大祭の始まりだった。
「気狂いだ」
暗い笑みを浮かべたペドロの声に背筋が震えた。否――背筋からの震えが全身に渡っていく。カチカチと歯が鳴った。駄目だ、とマリンチェは思った。ペドロ自身がこの祭りの興奮に飲まれているように思えた。そしてそれは、とても、危ういことだと直感的に理解した。
騒ぎが重なりあう。歌が響き太鼓が大地を揺らし、笛の音が空を渡る。そして――一層の歓声とともに一人の青年が大神殿の階段を上り始めた時、その火蓋は切って落とされた。
「殺せ――!」
ペドロの合図とともに、エスパニャ人が一斉に剣を振るい始めた。広場は一瞬にして歓喜の場から悲劇の場へと変わった。
踊り手の真ん中へ走っていったペドロがその胴体を真横に薙いだ。誰かの両手首がマリンチェの前に転がってきた。血しぶきが顔にかかった。逃げ惑う人々に押され転ぶ。だが誰も止まらない。門は閉ざされていた。そこにも兵がいた。逃げ場などなかった。悪臭が、香の煙もプルケ酒の香りも消した。太鼓はなぎ倒され、歌の変わりに悲鳴が重なった。
それは地獄の只中と同じに思えた。
「やめて」
声がかき消される。それでもマリンチェは立ち上がった。ここはテノチティトランだ。アステカの首都だ。チョルーラと違って人々はただ祭りを楽しんでいただけで、誰もエスパニャ軍に手を出そうとしたわけではない。なのに、なのに!
「やめて、やめて、やめなさい、やめなさい――!」
喉が潰れるほどに叫んだ。声は届かなかった。
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