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Chapter8. 悲しき夜
王の使者テウディレは、モクテスマの遺体を抱えて外へと出て行った。
宮殿にはクイトラルピトックが残っていた。テクイチポは王の忠実な下僕と共に、ぞろぞろと出て行くエスパニャ軍を見送った。不思議なことに、民の攻撃は一時止んだようだった。冷たい雨が降り続けている。
テクイチポはそっと、片方の耳たぶに触れた。冷たい耳飾りの感触を確かめる。片方は、友に差し出した。いつか、また、出逢えるように。小さな祈りをこめて。
「行かなくてよかったのですか?」
側に立つクイトラルピトックに、テクイチポは問いかけた。少々頭が寂しい男は、気難しい人だと思っていた。だが、今は判る。とても心の強い人なだけだ。
「ここにいても、すぐアステカの民に囲まれます。同胞に殺されるかもしれませんよ?」
「我が身が散ったとしても、最後まで貴女をお守りいたします。テクイチポ様。貴女はアステカの姫君であられるのですから」
「不器用な人ですね」
「よく、言われます」
テクイチポは笑った。そして、瞼を閉じる。エスパニャの人々は別の神を信じていた。だけど祈りを捧げる神はその異教の神でなくとも構わないだろう。祈りは、届くはずだ。
どうか雨の神トラロックよ。あたしの大切な友をお守りください。
◇
雨は気配を消した。先頭はサンドバルが隊長を務め、勇敢なエスパニャ兵で固めた。そしてシコテンカトル率いるトラスカラの先鋭が続き、トラスカラ、エスパニャ兵の混合隊が橋を持って進んだ。荷担ぎ人や奴隷が続き、彼らはそろって食糧などを持った。馬も隊の中にいた。金などの宝物の多くは馬の背に括りつけられた。そして、コルテスと側近としてアロンソ、アギラール、マリンチェたちが続いた。旧ナルバエス軍があり、殿はペドロとその部下――あの騒ぎを起こしたものたちに預けられた。
全部で数千の大軍になっていた。街中に人の気配はなかった。市街地は驚くほどあっさりと抜けた。堤道の切れ目で橋が落とされている。簡易の橋を渡し、さらに先へ進もうとした。
その時だった。
「勇猛なるアステカの民よ! 集え! 敵が逃げようとしている!」
いつの間にそこにいたのか。堤道の側の建物の影に、女性がいた。彼女の大声は次の瞬間、山びこのように響き渡った。同時に太鼓が鳴り響いた。招集の音だったのだろう。みるみるうちに小舟が集った。その全てに、アステカの伝統的な動物の鞣し皮をかぶった戦士たちが乗っていた。
「進め、進め――!」
コルテスが怒鳴った。
戦が始まった。アギラールが馬に乗りマリンチェを引き上げた。隊の進軍が早くなった。橋を渡し隊が進む。だが、半分も渡り切らないうちにアステカの兵がどっと押し寄せた。怒声と喚声が響き渡った。雨粒とともに矢も同じように降ってきた。陸からも湖上からも攻撃が続いた。マリンチェは唇を噛んだ。湖上都市テノチティトラン。どこへ行くにも水路があり、小舟で進める。それはそういった技術も持ち得ているということだ。そしてそんな戦を、エスパニャの兵は知らなかった。
簡易の橋が破壊された。
叩きつけられた人や馬のあげる水しぶきと音が、辺りに響き渡った。悲鳴と怒号が交差する。渡りかけていた者たちがテスココ湖へ沈んでいく。マリンチェとアギラールの乗った馬も逃れられなかった。沈みかけたところで馬の腹を蹴り、身一つで浮き上がる。突き刺すような水の冷たさが、今は生きている証だ。
這い上がり、進むしかない。
もはや堤道の切れ目はテスココ湖を泳いで渡るより他なくなった。泳ぎなど知らない奴隷たちから溺れていく。溺れなくとももがいているところを、アステカ兵の小舟が近づき石を撃ち、矢を放ってきた。テスココ湖が赤く染まった。その場で殺されないものは小舟に乗せられ運ばれていった。戦の勝ちを祈るために、神にその心臓を捧げられるのだろう。あの儀式を一度でも目にしたことのあるエスパニャ兵たちは泣き喚きながら助けを乞うたが、声はどこにも届かなかった。馬も溺れた。人も溺れた。特に欲張って金を持ち運んだものほど溺れ死んでいった。矢に射られる者、溺れかかる仲間に足を捕われ共に沈んでいく者、そして死体の山が築かれた。死体を踏み、仲間の遺体を橋代わりに先に進むしかなくなった。
アギラールは剣を抜き、マリンチェを守りながら進んだ。陽色の髪は血で赤黒く汚れていった。
「迷うな、止まるな、振り返るな! 先へ進め、進め! 前にこそ道はある!」
コルテスの怒号とともに次の堤道の切れ間に差し掛かった。迷わず飛び込んだ。マリンチェはもう何も考えられなかった。先ほどからディアナの姿も見えなくなっていた。他の知った顔も、次々と消えていた。
「マリンチェ!」
アギラールの声がした。同時にマリンチェは湖の中に沈められた。息がごぼりと吐き出される。刹那、頭上でくぐもった音がした。水面に顔を出す。咳き込みながらマリンチェが見たのは、小舟に乗ったアステカの戦士。その戦士が振り下ろした剣。そしてそれを何とか捌いた直後のアギラールの姿だった。
「アギラール!」
悲鳴が喉を突いて出た。
「足場が悪すぎる! 逃げなさい!」
別の所から声がした。アロンソだった。次の堤道から手を差し伸べている。アギラールがひび割れた声で叫んだ。
「アロンソ殿マリンチェを頼みます!」
「無論」
手首を掴まれた。肩が軋むほどの強さで引き上げられた。だが、アギラールはまだ水の中だ。マリンチェはたまらず手を伸ばした。
「はやくっ!」
「やめなさい、手を切り捨てられたいのですか!」
アロンソがマリンチェの手首をひねりあげた。痛みに悲鳴が漏れた。その間にアギラールは沈んでいる死体によじ登っていた。無残な姿だった。血に汚れ、全身濡れそぼり、肩で大きく息をしている。綺麗な格好ではなかった。だが――
愛しい、と思った。
「先に参ります、アギラール殿。対岸で」
「ええ。対岸で。アロンソ殿」
「なんっ――」
アロンソが駆け出した。引きずられるように走り出さざるを得なかった。
「アギラール、嫌よ!」
「心配するな」
苦笑と共に、わずかにアギラ―ルが振り返った。
――青。
雨の中、その瞳だけは青空と同じ色をしていた。
「まだ答えを聞いていないんだからな」
雨も矢も、石礫も、絶え間なく降り続いた。ふと、マリンチェは自分が泣いていることに気が付いた。だが、もう立ち止まるなど出来なかった。アロンソに並走し、ただ、前を目指した。
いくつかの堤道を渡った時、まるで切れ目に引っかかるようにぶら下がっているメヒコ女性の遺体があった。
いつもはくるくるとよく回った目が、虚ろに天を見上げている。すぐに判った。ディアナだ。
足が震える。嗚咽が漏れそうになり、マリンチェは唇を噛んだ。
泣きたかった。喚きたかった。だが、そうして足を止めると待っているのは死だ。ひとときの祈りの時間も許されない。ただ、脇を走り抜けるしか出来なかった。
「逃げないで、前を向きなさい。マリンチェ殿。これが貴女の選んだ、道です」
対岸が見えた。最後の堤道の切れ間をこえた辺りで、誰かが叫んだ。
「いたぞ、メヒコの裏切り者だ!」
それは紛うことなくマリンチェを指していた。すぐそこには対岸があるというのに、先に進めないほどのアステカの戦士が集まった。彼らはただ、マリンチェだけを狙っていた。
「逃げなさい。走れますね」
「――は、い」
「素直でいい返事です」
アロンソが笑った。
「貴方はコルテス殿にとっても、今後ずっと必要になる女性です。必ず生きて――生き抜いて、死んでいきなさい」
言うなり、アロンソが吠えた。
剣を携え、テスココ湖に飛び込んでいく。
マリンチェは背を向けて走りだした。背後から、濃く、死の薫りが漂ってきていたが――
振り返ることは、自分には許されていないと知った。
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