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その時突然、カタン、とドアの開閉音がした。
びくりとして寄り添っていた体を離す。
「千晴ちゃん、さっきは手伝えなくてごめんねっ――あら、成瀬さんどうして」
束ねた髪からこぼれ落ちてくる遅れ毛を耳にかけながら現れたのは、渡辺理恵子だった。
「渡辺さんこそ、お迎えに行ったんじゃ」
「ええ、行ったわ。でも今日は旦那が早く上がれたから後は任せてきたの――あたしいつも千晴ちゃんには甘えちゃってたでしょ、これでも反省してたのよ。どれから手伝う?」
「渡辺さん……」
やっと乾いた目元がまたじんわり熱くなってくる。成瀬に差し出されたハンカチでそっと目元をおさえた。
その様子を見て理恵子は、まあ、と手を口にあてる。
「なんだか、戻ってこない方がよかったみたいね」
「そっそんなことないです、嬉しいです」
「……早速始めますか。三人でやればすぐ終わるでしょ」
成瀬はそういうとテキパキと集計の束を三等分し始める。その間に理恵子はコートを脱ぎ、準備に取り掛かった。
と。
再び、ドアの開閉音がして、今度は三人そろって顔をあげた。
「――課長!」
「なんだ、みんないたのか」
相変わらずのんびりした声で入ってきた課長は、声とは裏腹に神妙な顔を千晴に向けた。
「色々悪かった――さっき最後に折れてくれた時の君の顔が忘れられなくてね。碓井くんならどうにかしてくれるって、つい頼るのが当たり前になってしまってたんだ。本当にすまない」
「もういいですから課長、ちょ、頭上げてくだ」
「下げさせとけばいいだろ、戻ってきたのなんて人として当たり前のことだし、こうなったのはそもそも課長の怠慢が原因だし」
辛辣な成瀬の物言いに「成瀬さん、言い過ぎ」と慌てて止めようとしたが、課長に制される。
「いや、いいんだ。成瀬くんの言う通りだ」
「分かってるんなら、さっさと捌いちゃいましょう」
成瀬は千晴の分担を課長に渡そうとして、「ん?」とその数字を凝視した。
「これ――誰からの依頼で?」
「真理ちゃんが受けたものだから営業部としか……」
課長に目線を送ると「わ、私は知らないぞ」ぶんぶんと大きく首を振られる。
成瀬は思い当たることがあるようで、どこかに電話をかけ始めた。「それは違うだろ」と怒りの声が途中で飛び出す。
電話を終えた成瀬が申し訳なさそうな顔で千晴に「ごめん」と謝った。
「うちの部署の新人が上長を通さずに勝手に白石さんとやり取りしたみたいだ。急ぎでもないのに適当に期限を置いたらしい。数日の猶予を設けたつもりが週末が入るのを考慮しなかったんだな、ていうか、そもそも上長通さずに依頼出したのがルール違反なんだけど」
「ということは――」
「とりあえず俺が持ち帰って、どうするかは週明けにうちの課長と検討する。その時には改めて依頼がいくかもしれないけど」
つまり、今日はもう帰っていいということだ。
ふと時計を確認するとまだ20時前。今からでも十分クリスマスを楽しめる時間だ。
思わず成瀬の顔を見ると、彼も同じことを考えたらしく千晴の両手をぎゅっと握った。
「あ、そうだ、碓井くん」
絡み合う視線は課長の無粋な声にぶった切られる。
「コンペに出すデザイン案、あのパソコンの中にしかないんだろう?」
唐突な話に一瞬理解が追いつかず、やや遅れて千晴は目を瞠った。
「どうしてそれを?」
「いや、たまに開いてるのを見かけてたからね。君がデザイン志望なのも知ってたし。碓井くんは私的なものをサーバーに置くタイプじゃないからきっと一緒にダメになっちゃったんだろうなって、ふと思い出したんだよ。それで、昔の部下でパソコンに詳しいやつにあたってみたんだ。ここに連絡してみてくれ、週末の予定を空けてもらった。もしかしたら復旧できるかもしれないらしい」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
千晴は連絡先が書かれた紙を信じられない思いで見つめた。
「よかったな」成瀬の言葉に千晴は嬉しそうに微笑んだ。
*
「お二人ともご家族が待ってるのに、ありがとうございました」
会社の玄関を出たところで、千晴は課長と理恵子に頭を下げた。
「やめてよ、千晴ちゃんが謝ることじゃないでしょ。これからはお互い様でやっていきましょ」
「そうだな、碓井くんだってこれからデートで忙しくなりそうだしな」
課長のストレートな物言いに、千晴は成瀬と一緒に顔を赤くした。
成瀬の大きな手が千晴の手を取る。
「彼女のこと、もう連れてってもいいですよね?」
彼がそう訊ねると、課長と理恵子は一瞬ばつの悪そうな顔を見せ合い「どうぞうどうぞ」と手で促した。
*
駅から続く繁華街は仕事帰りのサラリーマンでごった返していた。
街路樹のイルミネーションやどこかの店から聞こえてくるジングルベルーークリスマスだな、とやっと実感が湧いてきた。
少しだけ慣れてきた左手のぬくもりに目をやると、彼が強く握り返してくる。見上げればすかさず絡めてきた目線が甘すぎて、こちらはすぐには慣れそうになかった。
――ところで。
「あのーどこへ向かってます?」
課長達と別れてから成瀬は迷いもなく歩を進めていたが、千晴の問いに彼はようやく足を止め、照れくさそうに笑った。
「どこにも――とりあえず早く二人きりになりたかったんだ。飯でも食いに行くか」
「いいですね。あ、でも成瀬さんは食べてきたんじゃ」
「乾杯のビールだけ飲んですっ飛んできたから、めちゃくちゃ腹減ってる。今から入れるところあるかな」
言いながら成瀬はスマホを操作し始めた。
「何食べたい気分?」
「うーん、お腹空いてるからなんでもいけるけど、クリスマスなんでチキンとかどうですか」
「俺うまい焼き鳥屋知ってる」
「いきなり和風……」
「だめだった?」
「大丈夫です、口の中切り替えたんで。寒いし、日本酒飲みたい気分になってきました」
「じゃ、そこにするか。戻ろう、こっちだ」
と成瀬が千晴の手を引っ張り、方向転換すると――、
「千晴さん――!」
この鼻にかかったような声は――
真理だ。
雑居ビルが立ち並ぶ歩道の真ん中で、大きな丸い目をさらに丸くして棒立ちになっている。
その後ろの雑居ビルのエレベーターからスーツ姿のサラリーマン達がぞろぞろと出てきた。
「なんで成瀬さんと――残業は」
呆然と呟いた真理の瞳は、繋がれた二人の手を凝視していた。視線に気づき、千晴は慌てて解こうとするが、成瀬が離してくれない。
真理の可愛い顔がみるみるうちに怒りで歪んでいく。
「おおっ、成瀬じゃないか! なんだよ、もしかして碓井さんとうまくいったのか?」
「ほんとだ、やったな」
真理の後ろから覗き込んだのは千晴も知った顔の営業部の社員だ。
千晴の襟元を掴んで顔を寄せた真理は、小声の早口でまくし立てた。
「ちょっと、どういうことですか。あたしが成瀬さんのこと狙ってるの知ってますよね? 弱ってるふりして後輩の好きな人奪うなんて卑怯ですっ」
答えようとした千晴より先に成瀬が口を開く。
「ごめんね、白石さん――というか、ありがとう。俺、彼女のことずっと好きだったんだ。残業続きで弱ってるところに付け込んだのは俺の方。白石さんのおかげでOKもらえたよ、ありがとう」
成瀬はにこりと笑顔をつくると、繋いだ手をアピールするように持ち上げた。その目は全然笑っていない。
「これからも千晴のことよろしく」
強烈な嫌味に真理は答えず、唇をわなわなと震わせた。
「行こう、千晴」
何事もなかったかのように成瀬が千晴の肩を抱き寄せると、酔っ払いの野次馬たちが湧き立つ。
「なあ、二次会行こうぜ! 真理ちゃん、失恋は飲んで忘れるしかないって」
「……うるさいっ!」
真理はヒステリックに叫ぶと、寄り添いながら歩き始めた二人の後ろ姿を忌々しげに一瞥し、目を逸らした。
*
「やり残した仕事はもうない?」
冗談めかした成瀬の質問にこくりと頷くと、「じゃあ、乾杯しよう」彼は二人分のお猪口に熱燗を注いだ。
初めて過ごす恋人とのクリスマスは想像していたよりも随分和テイストだったが、彼とならそんな予想外もまた楽しい、と千晴は幸せを噛み締める。
「メリークリスマス!」
小さなお猪口をそっとぶつけ合うと、可愛らしい金属音が千晴の耳をくすぐった。
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