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 小学生になってすぐの頃、母が姿を消した。その理由を僕はいまだに知らない。父が教えてくれなかったからだ。だけど僕には、簡単に想像することができる。父を嫌悪していたからだ。父は裏表なくがさつで下品で、分かりやすい人間だった。良くも悪くも分かりやすい父が、僕は嫌いではなかったけれど、その性格ゆえに嫌う人間はあまりにも多く、その代表的な例が、母だった。  離婚したのかしていないのかも分からない母が消えたあと、父はよく釣りに行くようになった。渓流釣りだ。ひとのすくない時期が好きなのか、特に秋頃は毎日のように渓流に通っていた。父の仕事を僕は知らない。だけど僕が暮らしに不自由することはなかったから、なんらかのお金は得ていたはずだ。誰かと行くわけではなく、いつもひとりだったらしい。父が釣りに行く日は決まって学校か留守番なので、実際に向こうでの父は知らない。だから渓流釣りに本当にひとりで行っていたのかは分からないし、あるいは釣りと称して、誰かと別の何かをしていた可能性だってある。あくまで父の言葉を真実だと仮定しての、いつもひとり、だ。  なんでこんなまわりくどい言い方をしたのか、というと、僕の新しい母親も渓流から連れ帰ってきたからだ。  何も釣れなかったよ。ボウズだ。あぁでも魚の代わりに、女は釣れた。  なんて言って、三十代後半くらいの女性と一緒に。それが本当に渓流で出会った女性なんて思えるだろうか。  きょうから彼女が新しいお母さんだ。  父がそう言って、僕に新しい母親ができたわけだけど、実際に会ったのは最初の一回だけだ。そもそも僕の生みの母と父の間で離婚が成立しているのかも分からないし、新しい母親が父と本当に結婚しているのかも僕は知らない。法的な問題はいったん置いておくにしても、一度しか会ったことのない、名前も知らない女を、母親と呼ぶのはためらいがあった。  僕が小五の秋のことで、同じ年に、僕は新しい姉の藍と出会った。いままで絶対に連れて行こうとはしなかった渓流へと僕を誘って、そこに彼女の姿があった。  藍が、姉、になることに対してすんなりと受け入れることができたのは、一緒に暮らすことになったからだ。藍は新しい母親の娘になるわけだが、父も藍もはっきりと口にして、そうだ、と言ったことは一度もない。  彼女の最初の一言は、せせらぎに混じっていた。  私がきょうから、きみのお姉ちゃん。……なんか慣れないね。  と言って、むかしから弟が欲しかったから、嬉しい、と続けた。そして彼女は、ぐい、と僕に顔を近づけた、あまいにおいがして、そもそもあった緊張がさらに増したのを覚えている。  同じ空間で一緒に過ごすようになった彼女は、僕の憧れになった。  そして僕と藍は、父親のほとんどいない家で、三年という月日を過ごした。
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