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一緒に過ごした三年間で、藍はあまりにも特別な存在になっていた。もともと美しかった藍は時間の経過とともにさらに洗練されて、僕の憧れもそれにつられるように増す一方だった。
僕は十代の前半というもっとも多感な時期を藍と過ごし、彼女は僕に鮮烈な印象を残して、そして消えた。
渓流に素足を浸して、藍が、
ここで、きみとはじめて会ったんだよね。懐かしいな。
なんて僕にほほ笑んだのは、僕が中学二年の、これも秋だった。秋の渓流らしく、僕たち以外の姿はなかった。さぁぁ、さぁぁ、と水の流れる音は記憶に貼り付いたまま、いまも離れることはない。
高校での藍がどんな人間だったのか、僕は知らない。生徒会の役員をしている、と藍自身が、僕に教えてくれたことはあったし、彼女が地元でも有数の進学校に通っていて、勉強ができたことも知っていた。でも、そのくらいだ。それ以上のことを知りたいとも思わなかった。眼鏡を外して、束ねた髪をおろした、僕の目の前だけで見せる彼女のほうがずっと特別だった。
はじめて会った渓流に、久し振りに行かない?
そう言った時の彼女の真意は分からない。もしかしたら僕が起こそうとしていた行動を、藍も予感していたのかもしれない。
好きだ。ずっと好きだった。
水際にふたり素足を浸しながら、僕は僕の抱えていた想いを彼女に吐き出した。
私も好き。
僕は藍の答えが嬉しくて、彼女の両肩に手を置き、そしてキスしようと顔を近づけた時、
やっぱり親子は似るんだね。不思議。
と、藍が言った。なぜ藍がそんなことをこの場面で言ったのかは分からない。それを知っているのは彼女だけで、もう聞くことは叶わない。
僕は肩に置いていた手を、気付けば彼女の首に動かしていた。悪気があったわけじゃない、というのは、心の中で言い聞かせるどこまでも都合の良い言葉だ。僕は藍の首を絞めたまま押し倒し、苦しそうにもがく彼女を水の中に浸し続けた。動かなくなるまで。
彼女を、彼女への想いを、父の罪を、僕の罪を、怒りも、悲しみも、すべて水底に沈めて、もう浮き上がってこないように。
藍はすこし経って、身元不明の遺体として発見された。テレビがそう報じていたのだ。
顔を潰して分からないようにしたのもあるけれど、何よりもあとで知ったことなのだが、藍はもともと高校になど通っていなかったのだ。つまり僕の前で制服を身に纏っていた藍は、学生の振りをしていたことになる。
なんでそんなことをしたのか分からないままだ。よくよく考えれば、僕は家での姿以外、藍のことを何ひとつ知らない。
もしかしたら父なら、細かい事情まで知っているのかもしれないけれど、もうその頃の父は家に寄りつくこともなく、ただお金を送ってくれるだけの存在で、連絡先さえも分からない関係になっていた。
三年も一緒に過ごして、僕は藍のことを何も知らなかったわけだ。
藍は最初から最後まで謎めいたまま、僕の前から消えた。泡沫の夢のように。唯一の実感は、罪に手を染めた瞬間の、その感触の名残りだけだ。
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