最終章

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「抵抗できない状況でやったら多分セクハラになりますよね……」 「……何をした?」  瞬時に何かを勘づいた楠木が目を細め低い声で問い詰めてくる。 「多分怒ると思いますけど、ちょっとの間怒らないで聞いてもらえますか」 「内容による」 「ですよね……」  この震えが寒さによるものなのか、これから始まる恐怖を予見して震えているのか、もはやわからない。  マフラーに顔を埋め、楠木の顔をおそるおそる見上げる。 「例えばですけど、私にキスされたら不快ですか」  楠木の片眉が驚いたようにぴくりと上がる。 「……したのか?」 「た、例え話で」 「例えば、いつだ」 「……Nick-Nock向け企画書の社内プレゼンの前日です。楠木さんが仮眠してた時に」  観念してとうとう口を割ってしまった。  潮風に乗って船の出発を伝える汽笛が聞こえてくる。その音に目を向けながら楠木は大きく息を吐いた。 「例え話にしては随分具体的だな」 「すみません……」 「理由は」  うぅっと言葉に詰まる。 「魔が差したというか……あの頃楠木さんが怖い顔ばかりしてたので、どんな顔で恋愛するのかなって興味本位というか、気づいたらその、してました!」 「……興味本位」  ちょっと傷ついたような顔で楠木が反芻する。  洗いざらい白状した後はもう頭を下げるしかできない。 「本当にごめんなさい。反省してます!」 「相手が誰でもするのか?」 「まさか! 楠木さんだけです」  驚いて顔を上げ、また頭を下げる。  興味本位と口走ったが、興味があったから近づいたわけで。  他の誰かならきっとあんなことにはならなかったと思う。 「どんな顔で恋愛するのかって言ったな」 「はい」  地面と自分のパンプスをひたすら見つめながら答えると、両腕を掴まれそっと引き寄せられる。 「顔上げてみろ」  促されゆっくりと顔を上げると、笑顔ではないが怒っているのとも違う、少し照れくさそうな真顔が詩織を待ち受けていた。  海の匂いにまぎれてかすかに月桃の香り。詩織を見つめるまなざしは、潮風に煽られても冷めない焦れたような熱を孕んでいた。 「多分、こういう顔だ。そっちは――」  冷え切った楠木の指が詩織の頬を伝い上を向かされる。  今私どういう顔をしてるんだろう――わからないが、きっと彼と同じ顔だ。 「……怒らなくていいんですか」  彼の目を見れば訊かなくてもわかる気がしたが、訊かずにはいられなかった。  答えの代わりに、記憶にあるのと同じ感触が詩織の唇に触れてくる。少しだけかさついた、柔らかくて冷たい感触。  ぎゅっと楠木のコートを握りしめると距離を詰めるように抱き寄せられる。 「――俺の場合、セクハラにパワハラという余罪が追加になるな」  詩織の罪を打ち消してくれたキスの後、真面目な顔をして楠木が言うので思わずくすりと笑ってしまう。    それから詩織は背伸びをして楠木に顔を寄せ、二人の最初のキスをねだった。 fin.
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