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第一章
魔が差した。
そうとしかいいようがない。
――詩織! 何やってんの詩織! 早く離れなさい!
頭の中で冷静な誰かが警鐘を鳴らしているが、それすら今の詩織にはあまやかな旋律にしか聴こえない。
何かに魅入られたように目の前の男の寝顔を見つめていた。
意外に繊細なまつげ、筋の通った鼻、シャープな顎のライン、起きている時は鬼にしか見えなかったその顔は拍子抜けするほどあどけなく、唯一きりりとした眉だけが鬼の片りんを残している。
腹が立つほど穏やかな寝息が不意に唇をくすぐり、詩織の肩はびくりと跳ねた――
ふと我に返った。
目の前にいるこいつは部下である詩織をいじめ抜く、憎き上司。
今日だって、明日がプレゼンの本番だというのに何日もかけて作った企画書はさらりと目を通しただけであっさり「やり直し」と切り捨てられた。今日だけではない、この1ヶ月ずっとだ。時計を見ればもう0時を回っている。本番はもう『明日』ではなくあと数時間後になってしまった。
事前に先輩にチェックをしてもらった時はOKが出たのだ、それなりのレベルには達しているはずなのに。
嫌がらせに決まってる。
いや、ダメ出しされるのはかまわないのだ。
でももう少し思いやりのある言い方はできないのだろうか。
30歳――若くして課長まで登り詰め、能力だけでなく人望も厚いと評判だが、確かに評されるにふさわしい能力は認める。
だが人望に関しては異議ありだ。情とかそういうものは皆無のいわゆる典型的な仕事人間。能力だけじゃ人はついてこないはずだ。血も涙もない、そんな人間のどこに人望があるというのだ?
そんな人間が――
「――どんな顔で恋愛するんだろ」
そう思ってしまったのが『魔』だったんだろう。
詩織は押し付けていた唇を慌てて離し、茫然とつぶやいた。
「やっちゃった……」
何も知らない上司の寝顔は相変わらず穏やかだ。
わけもなく優位に立てたような気もして少しスカッとする。
が、そんな優越感は、遅れて駆けつけてきた罪悪感にあっという間に呑み込まれてしまった。
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