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 僕はベッドに寝転がって今日あったことを思い返していた。山岡をかわして学校を脱出し、赤信号の交差点を突っ切り、歩道橋から飛び降りて……城田にとってあれはまさに命がけの冒険だったのだろう。彼の言う悪魔が本当に存在するのかどうか、それは分からない。しかし、僕なりに彼の助けになれたことに対して、僕は心から喜びを感じていた。  突如、くぐもった悲鳴が僕の部屋に届いた。城田だ! 僕はベッドから飛び起きると、彼のいる部屋へと走った。勢いにまかせてドアを開け、そこで僕が目にしたものは……その恐ろしい光景を、僕は生涯忘れることはないだろう。  フローリングの床の上に、城田の上半身だけが突き出していた。胴体の周囲の床は、空間が圧縮されたり引き延ばされたりしたかのように、マーブル模様に(ゆが)みながら揺蕩(たゆた)っていた。それはまるで、別世界に通じる裂け目が床の上に出現し、そこに城田の下半身がすっぽりと入り込んでしまったかのようだった。城田は蒼白になった顔面に苦悶と恐怖の入り混じった表情を浮かべ、僕に向かって叫んだ。 「助けてくれ! 引っ張られる!」  僕は目の前の光景に理解が追いつかず、部屋の入り口で立ちすくんでいた。彼の体がゆっくりと裂け目の中に沈んでいく。彼は両手の爪を床に突き立てて必死に抵抗をはかる。城田の胴体のどこかがボキボキと鈍い音を立てて、彼は苦痛に満ちた悲鳴を上げた。両の目から涙が溢れ出す。手から力が抜け、城田の体はさらに速度を上げて沈み込んでゆく。腹が見えなくなり、胸が見えなくなり、いまや肩から上がようやく床の上に出ているだけになった。 「助けて……手を……」  城田は弱々しく声を上げ、震える手をこちらに伸ばす。僕はようやく我に返った。彼に駆け寄って手を取ろうとしたその時、ふいに城田の背後から真っ黒な二本の腕が現れた。その細長く骨張った指が彼の顔にまとわりつく。そして、彼の顔をぐっとつかんで下向きに引っ張ったかと思うと、次の瞬間にはもう城田の姿は跡形もなく消えていた。一秒か二秒ほどの間、床には水面の波紋のような模様が現れていたが、それが止むと元どおりの何の変哲もないフローリングに戻った。後に残ったのは、城田の爪が床につけた傷跡と、ベッドの足下に置かれた彼の通学用の鞄だけだった。悲鳴を聞いた僕の両親が駆けつけたが、僕はしばらくの間、その場に呆然とへたり込んだまま何も答えられずにいた。  その後がまた大変だった。警察にも通報したものの、まさか悪魔に連れ去られたと言うわけにもいかず、僕が悲鳴を聞いて部屋に行ったときには既に彼はいなくなっていたと証言するしかなかった。警察は家の中を色々と調べたが、結局、何らかの理由で自ら窓から出て行ったという結論に落ち着いたようだった。  彼が行方不明になったことはあっという間に学校でも知れ渡り、最後の目撃者である僕もしばらくは奇異の目に晒されることになった。しかし、もともとの彼の奇行の噂も手伝って、彼が消えたことについても「ありえる話」だと思われたようで、僕に対する同情的な目線も少なくなかった。学年が変わる頃には、もう彼のことは話題に上がらなくなっていた。  そう、課題を守っていたはずの彼が、なぜ悪魔に連れ去られたのかだが……。彼がいなくなった後、僕は兄の部屋を見渡してその理由に辿り着くことができた。兄の部屋と僕の部屋は隣同士で、兄のベッドも僕のベッドも壁際に置かれていた。つまり、僕が自分のベッドに寝転がったあのタイミングで、僕は知らず知らずのうちに、壁一枚を隔てて彼から六十センチの距離に入ってしまっていたのだ。悪魔が言ったのは「三秒以上の時間、体から六十センチよりも内側に、他人の体の一部でも存在してはいけない」ということだけで、間に壁があるかどうかは無関係だったのだ。城田を助けようとしていた僕が、結局は彼を死に追いやってしまったとは……なんという皮肉だろう。  これで彼の話は終わりだ。悲しかっただろうって? まあ……そうだな。でも僕はこう思うことにしたんだ。彼はもともと交通事故で死んでいたはずの人間だ。だから、それが少し先送りになっただけなんだと。なにより、あんなに無茶な課題ばかり出されていたのでは、彼はいずれ近いうちに死んでいたに違いない。悪魔にとっては、ただの暇つぶし。一種のゲームのようなものだったのだろう。彼の死は最初から決まっていたんだ。  実は、僕の周りでいなくなった人間というのは彼だけじゃない。死んだ人、行方不明になった人、僕の目の前で文字通り消えてしまった人……。色々な出来事があった。城田もそんな中の一人に過ぎないというわけだ。もしかしたら、僕の特徴というのは、奇妙な人が集まってくることだけではないのかもしれない。その人たちに恐ろしい最期をもたらす……それこそが僕という人間なのかもしれない。他にどんな事件があったか? それはまた次の機会に話すことにしよう。そのときまで、あなたが無事であることを祈っているよ……。
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