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「兄ちゃん、行ってくるよ」
ソファーの背凭れから伸びた手を見届けて、おれは家を出た。
ルピシエ市。
海に面したこの街は、国内で唯一民主化の波に逆らい続ける特別行政区である。過去に王都として栄えていたここは、元より名だたる大貴族たちが住まうお膝元であり、その影響力をもってして未来の形である平等化は一蹴され、貴族社会が押し通された。
そんな経緯でこの街だけが国内唯一、過去に取り残されてしまったのである。
酷い話と言われるが、住んでるおれからしたらここの暮らしはそこそこ気にいっている。
ノスタルジックな街並みは見ていて飽きないし、なにより海に面している。昔の言い方をすれば完璧平民に分類されるおれだが故に税金が安いのだから文句なんて出ようがない。
強いて言うなら市民街の立地だ。
なだらかとはいえ斜面であるこの市民街は、とにかく坂が多い。おれも毎日通勤で坂を20分上る身だが正直しんどい。今日みたく式典の日なんて最悪だ、貴族の街の正装というのは、制服だというのにジャケットには刺繍一つとっても純金で装飾されていてとにかく重たいのである。
そんな市民が苦労して坂道を超えると貴族街が広がる。正確な境界線はないが、道幅が急に広くなり道の名前が急に番号に変わる。今上って来た道は食パン通り、ここから先はQの17番通り。途端に貴族感がでるというわけ。
ちなみにおれの職場はここから更に北に行ったQの5番通り、他の豪邸より豪邸らしい白いレンガのルピシエ市警察署である。
貴族街を駆ける馬車を捕まえられればもう少し楽に出社できるのだが、生憎市民のおれにそんな金はなく、やっと警察署の門を潜れたのは家を出て40分後の事だ。
「あっちー…」
いつものことだが、仕事をする前からもう身体は疲れている。
「朝からへばってんな見苦しい」
「あルイスさん」
ドンと強めに背中を叩いてきたのはおれと同じ警備課の先輩。普段から口は悪いがルイスさんは朝は一層愛想がない。張り手の強さが本気さが物語っている。
「でもさ、おれ食パン通りから歩いて来てるんすよ?」
「知るか寮住め」
「住めないっすよぉ、家族居るし」
「お前一人暮らしだろ」
「あーネコっす、ネコ」
「自分の世話も出来ねえのにペット飼ってんのか」
「ええ…」
眉間にしわを寄せた彼から放たれる圧はとてもカタギには見えないが、実際その通り、体力仕事の警備課にたまにいる更生した元ギャングという中々の経歴を持つ一人である。
警察に犯罪者予備軍を入れるなんて!と思われるかもしれないが、悲しきかな警備課は地位も扱いもとても低い。給料も市民に比べたらマシなレベルで、同期の刑事とは天と地の差、要は身体一つでしか稼げない連中の最終就職先だ。
まあ、先輩の彼のようにギャングが減るだけいいのかもしれないけど…
ルイスさんと並んで歩く署内の庭園は、一言でいえばまさに貴族らしい。市民のおれからしたら無駄遣いの象徴である。等間隔で並ぶ訳の分からない彫刻、刈り揃えられた立派な木々に咲き誇る色とりどりの名前も知らない花々。お茶会でも開くのかと呆れるが、現に昼食はそんな感じだ。
足元を流れる小川と共に進み一際大きな噴水を過ぎれば、我が職場、白いレンガの豪邸ルピシエ市警察署というわけ。
だが今日は朝から式典、
「わ!おれの短剣、やっぱある~!」
「…昨日もらったんだから当たり前だろ。失くしたら殺されんぞ」
鍵付きロッカーから最低限の装備だけ整え再び庭に出る。
「剣にさ、名前ってつける派っすか?」
「あ?」
「・・・。ア、ソーダ、式典何時までっすかねー」
「決まってない。どうせ長くなんだろ」
眠たそうなルイスさんは億劫そうだ。
「アヘン事件から3年目で手掛かり未だなし、どうせ記者からバッシング祭りだよ」
「もーなにやってんすかねマトリ。てか本当にいるんすか」
「魔薬取締班?さあな。居たって警備課には情報降りて来ねえだろ」
「ひっどい話~」
「おいルイス、ギル!走れ!!」
緑の垣根を超えた途端、会場から響く怒声に背筋が凍った。中庭にセットされた特設ステージの前には、これから来る刑事課のスペースを開け、警備課がずらりと並んでいた。これにはゾッとしてしまう。
この頭数、ビリは確実におれ達だ。
隊長のルドルフさんがもう一度声を張り上げる。
「ビリ、今日の門兵にするぞ!」
「ギルがやります」
「おれ昨日したんすけど!」
「いいからとっとと並べ!俺らが一番に並んでねえと刑事課がうるせえんだから」
だからって30分前整列は早すぎだろ…。
*
「うわあ…!」
これが創設記念式典!
中庭に出た時、エマの口からは思わず歓声が漏れた。
この場所で行われる開会式を何度テレビで見ただろう。画面の中でしかなかったあの空間が今は目の前に広がっている。
「エマ、嬉しそう」
「はしゃぐことかねィ、毎年やってんのによォ」
「私は初めて参加するんです!」
片方は他人事、片方は呆れ、どちらにせよ冷めた先輩刑事の二人にエマはムッと噛みついた。
「それにこの正装、ずっと着たかったんですから!」
ルピシエ市警察の代名詞はこの煌びやかな正装、これはエマの憧れの象徴だ。
幼い頃は毎年、この正装を身に纏い街を行進する警官達を見に行ったものだ。特別行政区となったルピシエ市の治安を守る彼らが、幼いエマの目にはおとぎ話の騎士のように見えた。
王政時代の国軍制服を思わす黒地を余すことなく飾る金装飾が、パレードのなによりも眩しかったのを覚えている。彼らに憧れ目を輝かせていた自分が、今では夢を叶えて刑事になったのだ。あの歓声の中で手を振る側となったなんて、まだ現実味が沸かない。でも
「こんなん着たってなァ。肩がこるだけサ、パレードなしは今年も変わらねえんだからよォ」
「アヘン事件から追悼の一色ですもんね」
「好都合。早く終われば鍛錬出来る」
「同意だねィ、別に鍛錬する気はねぇけどサ」
「なんでそんなに冷めてるんですか…」
パレードがなかったとしても、エマにとっては今日は夢に見た日なのは変わらない。
中庭の自然に抱かれる正義の色をした純白の警察署を背にして設営されたステージには、署と同じ白い演説台がどんと構えている。
ステージを前にして既に整列しているのは警備課だ。豪華絢爛な正装姿の警官たちが姿勢よく並んでいるのはパレードを彷彿とさせ圧巻だった。
そして、それらを取り囲む記者の群れ、彼らの構えるカメラがエマが今まで見てきた光景を作ってきたのだ。
この場の誰もが、創設50周年のルピシエ市警察署の創設記念式典を今か今かと待ち構えている。
「やあ君たち、似合っているよ」
「キース課長!」
軽やかな声の主に、エマを含め三人の刑事は頭を下げる。刑事課長のキースはそれを制しながらも、
「エマにとっては初めての式典だろう?気分はどうだい?」
「さっきから浮かれちゃって。初めてQ街に来た市民みたいですぜィ」
「もう!そんなんじゃないです!」
「エマにとっては門出なんだから、喜んで当然さ。本来なら新人には剣の授与式があったんだけどね…」
3年前まで新人は、あのステージに上がり皆の前で署長から剣を手渡されるのが恒例だった。刑事なら剣、警備課なら短剣が与えられたが、パレード同様それも廃止が続いている。キースや先輩刑事と同様エマの腰にも剣が下がっているが、これは昨日署長室で簡易的な授与式の末与えられたものだ。
「署長から警察とは何たるかを聞いただろうから、僕からは刑事として言葉を贈ろう」
トントンと自身の腰に下がる剣の柄を叩くキースは優しく笑う。
「警察に与えられた武器にはそれぞれ意味があるんだ。警備課の彼らがもつ短剣は、人を守る為のもの。自分と市民の身を守り、そして犯人すらも生かす為の最低限の武器だ。対して僕らが持つ剣は人を殺してしまう。
僕らは秩序を守る為にこの剣が与えられている。分かるかい?自分たちの意思で、唯一他人の命を選択することが許されているんだ。だからね、芯となる正義も、それを振るう対象も常に見極めなければならない。決して間違えてはいけないよ。僕たちには貫いた正義と共に心中する責任がある」
キースの瞳には強い信念が燃えていた。剣術の腕も敵なしで警察内外からの信頼が厚い英雄の覚悟と責任とはどれほどのものだろう。エマは唾を飲み込んだ。
「ふふ、マリウスのようにはどうしてもいかないな。柄に会わない話はここまでにさせてくれ。
3年前のこの日のアヘン事件も未解決で祭日とは言えないけれど、元はこの街の成立と街を守る君たちのための式だったんだ。責任を忘れないのはもちろんだが先人たちの功績を讃えようじゃないか、今日は50周年なんだから」
「もしさァ、ここでアヘンが使われたらよォ、俺達は一気に殺しあうのかなァ」
「え…」
「こら、後輩を怖がらせるんじゃないよ。そんなこと、僕が二度と起こさせない」
キースの言葉に、エマの脳裏を過った恐ろしい想像は遠のいていく。
アヘン事件、魔薬を服用し悪魔の能力を得た服用者による最悪の大量殺人事件だ。
犯人が魔薬で得た力は現段階では人を意のままに操るものだと推測されている。
自分の意思を奪われ人を殺し、最後には自害させられた百人以上の被害者はどんなに恐ろしかっただろう。
そんな力がまた使われたらと思うと、考えるだけで恐ろしい。
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