NO.1 吾班は猫である

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* 夏の雲のように厚い煙が、風に靡かず空にも昇らず、とぐろを巻きながらその場に停滞している。 時は少し遡り、煙幕の中でシュウとギルバートが出くわす前のこと。 爆発直後。 警察署には中庭を一望できるウッドデッキが設けられており、普段は警官たちの憩いの場として使われている。そこに、シュウは茫然と立ちつくしていた。 頭の中では何度も目の前でおきた爆発がフラッシュバックし、耳は鼓膜を破らんほどの爆発音によってずっと耳鳴りが続いている。情けないことに足は震えていた。 …まさか本当に襲撃されるとは。 本来であれば自分はあのまま、ステージと共に爆ぜていた。"彼"が居なければ確実にそうなっていたに違いない。。 「相当恨まれているんですね、マリウスさんも」 サングラスの男、アレンがこぼす。彼こそが爆弾に気づき、人並み外れた身体能力で間一髪シュウを救った人物だった。 ウッドデッキの柵に凭れる彼は口ぶりと同様、襲撃に対して少しも焦る様子がなかった。ただただ忠犬のように、上官のナターシャがまだいるであろう全てを覆い隠してしまった煙をじいっと見据えている。 いや、彼の目ならばあの中の状況はすべて見えているはずだ。 警備課に支給している熱感知のメガネは彼の視界に着想を得たものなのだから。 「アレンくん、皆さんは大丈夫でしょうか?」 「はい。死体はありませんよ。ナターシャさんもすぐ来ます」 「そう、よかったです…」 シュウは胸を撫でおろす。 そして彼の言う通り、すぐにナターシャが、続いてシュウ同様サングラスの彼女に救助されたマリウスが煙を抜けて出てきた。 署長の無事にシュウは安堵するが、同時に末恐ろしいとも思う。 あの一瞬の爆発からですら、無傷で人を救えるとは。 …味方につくとこうも頼もしいのか。 目下まで迫っていたあの超高速の爆弾から、残された時間なんてなかった。まさに瞬く間、というやつだろう。 だがアレンはその場にいたシュウを、ナターシャに関してはステージ上の署長を怪我一つなく無事助けだしたのだ。 人間には到底不可能な仕業である。 「…流石、マトリですね」 人間の限界を優に超え、常識をこうも簡単に覆す存在。 感動と同時に畏怖すら滲むが、アレンは少しシュウを振り返っただけで、なにも答えなかった。 「くそったれ!また余計な会見が増えやがった!俺に何枚原稿を書き起こさせる気だ!!」 ウッドデッキに上がるなり開口一番に吐き捨てたマリウスは、椅子に荒く腰かける。彼の頭は襲撃の鎮圧を通り越して式の延期にテロに対しての会見と、すでに今後の予定変更が渦巻いているらしい。未だに心臓が怯えているシュウにはとても真似できない先見性、この冷静さが彼を鉄の署長と言わしめるのだ。 常に先の先を見据えた最善の選択を彼は出来る、例えそれが幾重の犠牲を払おうとも…。 こめかみを押さえて唸る署長をナターシャは鼻で笑った。 「またアンタの長話の会が増えると思うと悲劇だわ」 「ああ?…おい、任務中はサングラスを外すなと何度言えば分かる」 「こんなに霧焚いてんのよ?誰も見るわけないじゃないのよ」 署長の注意を一蹴する彼女は、顎下に下げたサングラスを戻す素振りも見せずにアレンを振り返る。 「で、あの煙幕、いつまでもつの?」 煙幕を使用した張本人もまたサングラスを少し落とし煙を見つめていた。すると彼の瞳が次第に肉食獣のように瞳孔が細く尖っていき、黄色く色づき光を増す。 魔薬の効力を使用するときの症状だ。 「3分弱です。犯人も煙幕で立ち往生しています」 その神秘さはシュウを釘付けにさせる。人の目をこうも見つめるなんて無礼だと承知の上でも、目を離さずにはいられなかった。 本来なら人間の第二の炎になり得た英知、魔薬とはどれほどの力を秘めているのだろう。 この症状が服用者全員に当てはまるのかは定かではないが、同じ効力を得たナターシャとアレンは同様の症状が出るため、人間離れする彼らの目を隠すべくサングラスの装着を署長は義務付けた。それだけでなく正体を、つまりはマトリの班員の身元を徹底的に守る為の覆面の効果もあるからだ。 マトリの存在は公表されておらずこの警察内では極秘事項。存在を知るのは署長とシュウと、課長の2人だけである。この徹底さが一部の記者に嗅ぎつけられようと噂程度に留められている所以であるのだが… 当の本人らが全くそれを気にしていない。 自分が服用者であることも、魔薬取締班が秘密裏に結成されていることも、まったく隠そうとしないのだ。 故に何度彼らの尻拭いをしたかシュウには数え切れない。 力による慢心なのか、二人のマイペースさを重々承知しているとはいえ呆れる。マリウスはと言えばすぐにサングラスを邪魔にする彼らへの苛立ちを露わに両手を天に挙げていた。 「…アレンくん。犯行予告通り、服用者による犯行なんでしょうか?」 「だと思いますよ、馬鹿でかいのが一人いますからね」 馬鹿でかいのとはなんなのだろう。巨人だとでもいうのだろうか。想像も付かない相手に眉を顰めていると、あ、とアレンが零す。 「犯人が動き始めました。外に向かっています」 ピリっとナターシャとマリウスの気配が変わった。目くらましの煙によるわずかな時間稼ぎは終わった。とうとう悪魔が動き出したのだ。 アレンがジャケットの内ポケットから煙幕を生み出すビンを取り出す。 「もう一発いきますか?」 「必要ないわ。身内の避難が遅れる方が考え物でしょ。それより警備課の避難はまだ終わってないの?課長には前もって伝えていたはずよ」 「見る限り指示通り動いていますよ。警備課の避難誘導は8割方完了しています。ですが服用者の範囲10m圏内に数人か」 「ったく、霧が晴れる前にさっさと終わらせるわよ」 瞳孔を細めるナターシャの声には緊張が滲んでいた。 いくら視界を遮っていても、服用者が動けばいつ煙に取り残された警察官たちが鉢合わせるか分からない。それは綱渡りのように死と隣り合わせということだ。 エマやギルバートはもう避難出来ただろうか… ナターシャの目は爛々としていてまさに狩りを始める前のライオンのようだが、それを制したのはアレンだった。 「ここを離れるべきでしょうか」 「じゃあアンタが残りなさいよ、アレン。私はごめんよ、ギョロ目のお守なんて」 一瞥を寄越したナターシャはサングラスをかけ直すと、軽々しい動きでウッドデッキを飛び降りていく。煙の中に消えていく背中をアレンはため息まじりに見送っていた。 シュウたちの身を案じ彼は動けないのだ。 「アレンくん、僕らのことなら…」 大丈夫です、とはシュウの口癖のようにしみついているのに、言えなかった。 今回の襲撃は、犯行予告通りであれば署長の暗殺が目的だ。彼の見えている"馬鹿でかい"服用者が単独犯でない可能性も拭いきれていない中、どこから署長が狙われているか分かったものじゃない。 煙の中では取り残された警察官や記者と鉢合わせる前に服用者を確保してほしいのは山々だが、2人にこの場から離れてもらえば一体誰があの脅威から署長を守れるだろうか。 自分? …いいや、無理だ。アレンに救助されたシュウには、どんなに強くとも彼ら服用者に人間の域が通用しないのは嫌でも理解できた。その上、ただの現場さえも降ろされた自分に何ができるだろう。 …刑事課長のキースであれば、服用者相手でも戦えただろうに、自分はなんて無力なんだろう。 「っ貴様は何のための魔薬取締班だ!!」 声を荒げたのは署長だった。ビリビリと空気を震わせるほどの怒声を響かせる彼は、大きな目に強い怒りを燃やし、アレンを睨みつける。 「俺たちは煙幕に紛れておけばどうとでもなる。貴様の仕事は傲慢な服用者に報復することだろう!分かったらさっさとここに身の程知らずを連れてこい、今日という日に愚行を働いた者を断じて許すな!!3年前の雪辱をまた味わわせられるのだと思っているのなら、考えが甘すぎると知らしめろ!!」 そうして彼は、不敵に笑うのだった。
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