NO.1 吾班は猫である

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* 服用者と対峙するサングラスの謎の刑事。 彼女がナターシャという名であることも、服用者であることも、そもそも魔薬取締班なんていう部署の存在すら知らないエマは、ただ茫然とにらみ合う二人を見ていた。 二人から発せられる並々ならない殺気は、この場にエマがいることを自身ですら忘れさせる。身体中の激痛も今だけは弱まったように感じていた。 「なあ、聞いていいか。調子のんなって、今俺に言ったのか?」 薄ら笑いを浮かべる男の筋肉は次第にもむくむくと膨れ上がり、身体が肥大化していく。その光景はまるで人が別の生き物に変わっていくようだ。 不気味さからエマは自然と目を逸らしていた。 これでは人の皮を被っただけ…人間とはとても言い難い。 服用者を悪魔と例えられる意味を、本能的に悟った。 巨人と化した男の大きい筋肉の塊のような腕が垂れ下がり地面に落ちた。その振動はエマの足元まで揺らしたが、男の前で仁王立つナターシャはピンヒールであるのに微動だにしない。それどころか、 「さっきから相当寒いわよ。だって、あは!自分が舞台の主役だとでも思ってなきゃそんな恥ずかしい演出自分できないでしょ」 と巨大な男を見上げては鼻で笑う。 「自慢の程度が低いと恥の上塗りよ。おもちゃをもらいたての子どもじゃないんだから、見せびらかすのは辞めたら?」 そうして低く身構えたかと思えば姿を消した。いや、消えたのではなく踏み込んだのか、彼女は素早すぎる動きで男に襲いかかった。 速い!と息を飲んだのは一瞬で、すぐにぞわりと悪寒が走る。 彼女の指先には、野生動物を彷彿とさせるような鋭く尖った長いかぎ爪が伸びていたのだ。 「あの刑事も、人じゃない…」 無意識にも心からもれた声は、エマの思う以上に震え、掠れていた。 男の両腕が振り落とされる度に地面にクレーターができるが、ナターシャはひょいひょいとかわしては鋭い爪で分厚い筋肉を抉った。男が庭園の巨木を軽々引き抜き投げる。風を唸らせ飛ぶ巨木が目標に避けられ地面に倒れると、地震のように大地が揺れた。衝撃で折れた太い枝はエマの頬を掠めていく。 次元が違う…。 身の危険を感じたエマはのろのろと立ち上がった。忘れていた痛みが全身を駆け巡るがそれでも、無理やり身体を引きずりながら垣根の裏に隠れた。 こんな戦いに巻き込まれてはひとたまりもないと思った。 それに、服用者の刑事なんてエマは聞いたこともない。 記憶にあるのは同期が面白おかしく話していた、嘘か本当か秘密裏に設立されたという対服用者の捜査組織の噂だけだ。 彼女がその一員なのか、今のエマには判断のつけようもない。ただ、見てはいけないものを見てしまったことだけははっきりと分かっていた。 垣根の下に息を潜めながら隠れて少し、勝負はあっさりついたのか、一際大きな地鳴りを最後に庭園は静まり返った。 緑の隙間からエマがこっそり覗くと、2mはある巨体が華奢なナターシャの足元に倒れているではないか。男の身体がまたしぼんで人の形に戻っていく。その細くなった腕に、彼女は手錠をはめていた。手錠が支給されているのであれば、やはり彼女は制服通り刑事ということになる。 こうして毎回、人知れず服用者の犯人を片付けているのだろうか。 観察していると、一仕事終えた彼女は何かを捜すように辺りをキョロキョロと見渡し始めた。嫌な予感がする。捜しているのは、恐らく… 「さっきの子、どこ行ったのかしら」 やはりエマだ。 怪訝そうな彼女は、エマが服用者に投げ飛ばされうずくまっていた木の側でぼやく。その声は静寂の庭園の中ではっきりとエマの耳にも聞き取れた。 なんで、なんで捜すの?まさか口封じとか?? 青ざめていくエマの頭には嫌な想像ばかりが浮かんで止まないが、その間にも状況は悪くなっていくようで、今度は何者かが駆けてくる足音が近づいてきた。 「ナターシャさん!」 サングラスの彼女の下に合流したのは、同じくサングラスで顔を隠した刑事の制服姿の男。間違いなく彼女の仲間だろう。 呼ばれ振り返った彼女は、仲間を見つけ流れるような動作でサングラスに手をかけた。レンズで隠れていた彼女の素顔があらわになる。 「ひっ!」 咄嗟に口を押えたが、喉の奥から漏れ出る悲鳴まで抑えることは出来なかった。 不気味に爛々と輝く彼女の瞳は、人のもとはかけ離れた獣の眼をしていたのだ。 はじかれたように刑事の皮を被った魔薬取締班の2人が、エマのいる垣根を振り向く。垣根の隙間からだというのに、目が合っている気がした。 * この状況を一言で言うなら、ドッキリかなって。 カメラどこ?とか薄ら寒いことを言う気はしないが、ドッキリであってくれとは今でも思っている。 襲撃されたのも、ステージが爆発したのも、なのにひょっこりシュウさんたちが無傷で現れるのも、そして何故かおれに署長の護衛が任されたのも全部、全部…だっておかしいだろ。 「そう気を張るな、こちらまで落ち着かない」 こっちの気も知らず、署長はぴしゃりと言い放つ。 護衛のご指名いただき大変恐ですが知らないなら言っておくと、おれは実務経験は警備課の中で一番下のド新人だ。ちなみに向上心もない、筋トレは隊長が見てなければすぐさぼるし、パトロール中は駄々をこねるルイスさんの昼寝に付き合うレベルだ。あは。 だから、おれはこんな真昼間から襲撃してくるようなテロリストから署長とシュウさんを守れる確率は限りなく低いということ。つまり今心配してるのは署長、あんたの身の安全なんですけど。 とは言えず、適当な愛想笑いを浮かべて流した。 曖昧な返事に呆れたとでも言わんばかりに署長は大きいな目をぐるりと回す。感じが悪いというか…貴族様らしいと言えばそれに尽きるが。 「ギルくん、ごめんなさい。君も不安だろうに」 むしろおれに悪がるのは秘書のシュウさんの方で、秘書職というのはやはり板挟みの大変な仕事のようだ。 「や、おれもシュウさん達置いてけないから、別にいいんすけど…。本当に皆と合流しなくていいんすか?」 メガネ越しの視界は機械特有の砂嵐しか見えず、この辺りに残っている体温はない。煙からの避難はとりあえず終わったとみていいだろう。 本来ならおれたちもそうするべきだ。署長が狙われているなら尚更、だって風下には無敵の刑事課長キースさんがいるのだから。 こんな視界が悪いところで、しかも下っ端のおれと居ることがどんなにリスクが高いか。おれより何倍も頭がいいだろうここの2人が分からないわけないのに。 「この煙は警察が目隠しの為に放ったものですから、そう心配しなくても大丈夫ですよ」 「え。えそうなんですか?!でも、警備課長は避難って…」 「余計なことまで言わなくていい、シュウ」 また、鋭い切れ味の威圧を署長は放つ。シュウさんはむっとしたようで、 「僕は、ギルくんに護衛までお願いして余計な心労をかけたくないだけです。昨日剣が授与されたばかりなんですよ?」 「ああ、俺の記憶違いでなければ俺が彼に剣を託したんだが。それともなにか、貴様はまだ一人前ではないのか」 「や、おれは、宣誓通り頑張らせてもらいます…」 「マリウスさん、」 「シュウ。愛弟子の為を思うのなら尚のことだ、知ったところで後々面倒に巻き込まれるのはそいつだぞ」 そいつとはおれのことらしい。いや、今も既に巻き込まれてるんだけど…。 答えを求めてシュウさんを見たが、彼は苦く笑いながらも口を噤んでしまった。 本当に、わけが分からない… おれを挟んで流れ始める気まずい空気に途方に暮れていると、どこか遠くからズシン…と、巨大ななにかが倒れたような、重量ある低音が響いた。 「っ敵襲!?」 音の方向からして、毎朝警察署まで長い道のりを歩かねばならないあの庭園からのようだ。門をくぐって攻めてきた、とか? だが署長は「それはない」と何を根拠にか断言する。 「此度の襲撃は殺害予告からして思想犯によるものだろうからな。俺が死んだと思わせている間は追撃はないとみていい」 そりゃ、あの爆発をみたら誰だって即死だと思うけど。 てか、殺害予告とか貰ってんのかよこの人… シレっと言ってのけた署長からしてこういう類は慣れっこなのだろう。式典の前に警備を強化する話も聞こえてこなかったし、人に殺意を抱かれているのに心が動かなくなっているのだろうか。 鉄の署長になんとも言えない感情が湧いた。 でも敵襲でない根拠がどこにある。そんなのただの想像でしかないのに。 おれがまだ音のした方を気にしていたのが、彼は気に食わなかったのかもしれない。署長は言う。 「ヴァレンティノといったか、好奇心は猫を殺すというだろう。  これは忠告だが、気にしない方が身の為になることもある。お前の首と身体はまだ離れたがってはいないだろうからな」
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