はじまり

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はじまり

〇  椿は、水滴の音が響く仄暗い黄泉の国で、声を聞いていた。  地に伏して頭を下げた。前下がりに切りそろえた短い黒髪が、屍のように青白い顔にかかっても、それを払うことは許されなかった。おのれよりも大きな存在が近くにいるのだ。そんな無礼なことができるほど、椿の心臓は強くはなかった。 「イザナギノミコトを探しなさい」と、椿の頭上から声がする。それと同時に、さまざまな色の花弁が降ってくる。 「はい」  椿は、この声の主の姿を見たことがない。けれど、この声を聞くときはいつも、蓮の花が浮かぶ神聖な池と、黄色く暮れた空と、それから母なる神様の大きな手のひらを思い出すのだった。相手はそういう大きなものなのだと、声だけでわかる。  それに、黄泉の国で唯一輝くものの導きを、椿は信じずにはいられなかったのだ。そう思ってしまうくらい、この場所には何もなかった。そして椿自身もまた、何も持っていなかったのである。存在意義どころか、おのれの存在すら覚束ないほど長い間、椿は、黄泉の国の住人としてこの声を待っていた。 「椿、イザナギノミコトを探すの。それがお前のためなのだから」 「はい、お母さま」  椿は、声の主を便宜上、母と呼んでいた。  黄泉の国に来る前の、生前の記憶のほとんどが経年劣化してしまっていた。だから、系譜上の両親は存在するのだろうけれど、父や母という感覚を持てなかった。椿だけでなく、黄泉の国の住人はおよそ同じようなものである。生前を覚えている者のほうが少ないくらいだ。だから、黄泉の国には独自の慣習ができていた。人格を持った作り物が作者を父母と呼ぶように、死したおのれのガワを新たな形に作り直した存在を母と呼ぶ。文化的な営みのうわべを模したようなそれを、誰に教えられるでもなく学んでいくのである。 「イザナギノミコトは、地上で人間の男に生まれ変わっているはず。お前は人間の子どもが通う学校というところへ行って、イザナギノミコトをここまで連れてくればいいの。できる?」 「必ず果たしてみせます」 「それでこそ我が娘たちのひとり。では、おいきなさい。吉報を待っているからね」  声が遠ざかっていく。稲光のような瞬きのあと、椿はしばらく気を失っていた。そして、目を覚ました頃には洞穴の外側にいた――ここは、うつしよだ。森の中だった。海が近いのか、波の音がここまで届いてきている。  椿は体を起こすと、迷わず歩き出した。森を抜けて、町へ行く。イザナギノミコトを探しに行かなければならない。何も持たない彼女の、唯一の動機であり、存在意義である。他のことを考える必要はない。そういう命令を与えられたのだから、それを実行する。  何の疑問もなかった。何故なら、イザナミノミコトはイザナギノミコトを求めるものだから。
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