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階段を降りるつもりで進めた右足の着地点が左足と同じ高さではっとする。そんな私を横目にくすくすと笑いながら、「もう降りきったよ」と悠馬さんが優しく言った。
「元彼のこと、思い出してたの?」
「ちょっとだけ、懐かしくて。あ、でも別に未練があるとかではないよ」
「そんな慌てなくていいよ。架純がちゃんと僕と向き合ってくれてること、わかってる」
組んでいた腕が解かれて、大きな掌で優しく頭を撫でられる。
「まあでも、彼がいたから今の僕らがあるわけだし。僕的には、感謝もしなきゃ」
悠馬さんとは、会社の先輩の紹介で知り合った。お世話になっている先輩の彼氏さんと悠馬さんが長い付き合いで、先輩も悠馬さんと仲良くなったらしい。
「架純ちゃんに合うと思うの! いいやつなのは保証するから、気に入らなかったら別にそれで構わないから」
世話好きの先輩の押しの強さに負けて、先輩カップルと四人でご飯を食べに行くことになり、そこで過去の恋愛についての話題となった。私の口の堅さをお酒の力で何とかしようとした先輩カップルに煽られた結果、私はその日の記憶をなくした。目が覚めると先輩の家で、空白の時間に私は、瞬との付き合いについてぐちぐちうだうだ語っていたと教えられた。
完全なる失態。
もう悠馬さんに会うことは二度とないと思ったし、それでよかった。瞬と別れてから、友人に勧められて合コンに行ったり誰かを紹介されたりということはあったけれど、結局どれも心が動かなかったから今回もどうせそうだっただろうし。実際、悠馬さんの顔も覚えていないくらいだった。
ところが、だ。
何がどう彼に刺さったのか、悠馬さんにまた会いたいと誘われた。別に彼に惹かれているわけではなかったけれど、お世話になっている先輩の友人でもあるわけだし、とりあえず前回の失態について謝罪をしなければという気持ちで再び会うことに了承した。
歳の差のせいかもしれないが、彼は瞬と全然違っていた。喜怒哀楽が激しくわかるわけではない、控えめだけどゆったりとした落ち着く空気感、大口を開けて笑うことはないがよく細まる優しい瞳、周りがちゃんと見えたスマートな対応。初めてちょっとだけ、心が動いた。
瞬と違うから。違うから、こういう人となら付き合えるのかもしれないなんて、思ったのだ。
何度目かのデートを経て告白された時、本音を言えば私は悠馬さんに恋をしているとは言えなかったと思う。だけど真っ直ぐな瞳を持った誠実なこの人にもう会えなくなるのは嫌だった。だから私は、首を縦に振った。
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