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縁と命は繋がれぬ
がらがらと立て付けの悪い引き戸を開ければ、和風建築ならではの薄暗い空間が続いていた。暗い、と言っても陰鬱なものとは違い、趣があるといったほうが近いだろうか。そんな家屋の中に、まだてっぺんまでは届かない太陽の光が戸の間をすり抜けて、明るい道を作る。
さほど大きくないその空間には、所せましと物が置かれていた。手前の棚には大振りな壺や皿、壁には掛け軸や絵画、地面に近いところには土器、奥のガラスケースには日本刀や細かい細工の置物などが入れられている。息を大きく吸えば、家の箪笥とは違う、独特の防虫剤の匂いが鼻を掠める。
少しばかり埃っぽく感じるのは、古い物が陳列されているせいではなく、ここが数週間閉め切りになってしまっていたからだろう。
その店は町家を生かした形になっており、奥のほうへと向かっていけば、二階に続く古めかしい階段と和室がある。和室は事務処理をしたり商談を行う場所だ。その横には簡単な給湯室があり、さらに奥には表に出さない品物を置いた倉庫が離れのように存在している。空きスペースには、ちょっとした和風の庭。ちなみに二階は生活空間だ。家中の窓を全開にして、淀んだ空気を追い出す。それだけでなんだか店に活気が出た気がした。
入り口へと戻れば、ちょうど戸の内側にある木の板に目に留まる。柿茶色の地に浮き出た木目、その上に真っ黒な墨で書かれた文字がてらてらと光っている。雨風に晒されて少し剥げた、しかし独特の風合いのあるこの看板がいっとう好きだった。どれほど立派な店であっても、これ以上に心惹かれる看板を掲げているところは見たことがない。もう少し店内清掃はいるだろうが、それでもその看板をできるだけ早く日の下に出してやりたくて扉の横に立てかける。
村雨堂、シンプルに店主の苗字がつけられた店名だ。だが、字面も美しいし、響きも美しい。自分好みの最高の店名。同じ苗字を持って生まれてよかったな、とうんうん、と看板を前に頷く。
村雨霧生。
強く打ち付けられる水の飛沫が白くけぶる様が想像できるのが自分の名前だ。古き良き日本の趣のある部分がこれまたいい。名前を付けてくれた祖父には感謝しかない。その祖父は、加齢とぎっくり腰で店に立てなくなってしまったが、名前だけでなくこの店も譲り受けられたことを誇りに思う。
「さぁ、はじめていきますか!」
趣味と雰囲気作りで着ている着物に襷をかけて、気合を入れた。
この店の店主になったのは偶然ではあったが、それでもいつか、という気持ちはあった気がする。幼いころはずっと祖父の後をついて回っていたから、過去を思い返せばまず出てくるのは祖父の顔。彼の膝にのって一緒に子ども向けアニメではなく相撲や時代劇を見ていた。なんとか戦隊のヒーローになりたいという子どもの横で、助さん格さんになりたいと言っている、そういう子どもだった。
あらかた掃除が終わったころには、店内に置かれた物全体に赤く化粧がされていた。物と物の間に潜む重たい影が妖艶な夜の気配を漂わせている。一日があっという間だった。
商品を運んだり屈んだりということを繰り返したせいで軋んでいる腰をぐっと伸ばしてほぐす。ストレッチは大事だ。三十にもなると気を付けないとすぐ腰をやってしまう。入念に腰を労わりつつ、奥へと目を向ける。
店の奥、渡り廊下を渡った先にきっちりと閉められた扉がある。やけに頑丈な鍵のかけられたそこは、自分もほとんど入ったことがない。表には出しておけないような高価な品物が置かれている場所だ、ということは知っているし、これから自分が管理していかねばならないことも分かっていた。
こちらも確認しよう、とまず服を全部着替えた。先ほどまで掃除をしていた服でそのまま入るわけにはいかないからだ。袴は面倒くさいから、着流しに襷掛けにした。所蔵されているもの全てを把握しているわけではないが、そこに保管されているのは、外に置かれた商品とは桁が一つでは足りないくらいに価値の高いものであることは聞かされている。土やゴミを外側から持ってくるのはあまりによろしくないからだ。念のためマスクまでつけ、新しいスリッパを持って倉庫の方へと向かう。
祖父からもらった鍵で、扉を開く。鍵についていたキーホルダーの金具がチャリン、と音を立てた。革をメインに作られたそのキーホルダーは、使い古された独特のてかりと掠れた風合いを醸し出している。いつから使っているのかわからないが、手入れされて何年も使用していることはわかる。
愛でるように物を使う人だった。ぷかぷかとふかしていたパイプも、腰から下げていた諸々の道具入れもずっと変わった記憶がない。そうした物は使い込まれて傷だらけで、流行りからも取り残されている。しかし、彼のごつごつとした手に収まったものたちは、彼に扱われるためだけにそこに生まれて寄り添っているようで、やけに格好よく見えた。
憧れの祖父の真似ばかりしているうちに、今や同じ業界に入ってしまった。そんな自分に、両親は呆れ返ったが、祖父は笑って祝ってくれたのが昨日のことのようだ。
懐かしく思い出しながら中に入れば、空調管理と虫が入らないようにしたりするための前室がある。そこでスリッパをつっかけて、さらに設置されている中扉を開けて足を踏み入れる。
中は真っ暗で、空調によりひんやりと冷たい。締め切りにされてはいるが、きちんと管理されているため黴臭さなどはない。祖父がそんな杜撰な管理をするはずなどがないのだから、当然だ。
傍らにある電気のスイッチを押せば、いくつもの箱が置かれているのが照らし出された。その一つ一つに、丁寧にどういったものが入っているかが書き込まれている。掛け軸に巻子に武具甲冑、調度や漆器、陶器に仏像。おそらく、それなりの来歴や謂れがあるものだ。古物の世界ではそれらが物質的な価値を左右するのだから。
自分にとっても宝の山に、思わず息を吐く。ずっと古物を扱ってきてはいるが、貴重なものを見れば何度でも感嘆の息が漏れてしまう。
「……ちゃんと大事にしてくれるところに行くといいなあ」
今は、ここに眠り、帰るべき場所を持たぬ物たちがその価値に相応の扱いを受けて大事にされてほしい。管理に手間も時間もお金もかかるこれらの物を、過去からここまで運ばれてきたように、未来に運んでくれる人のもとにたどり着いてほしい。その人に愛情があったら、もっといい。
仲介人としては、そんな風に物と人を繋いでいければと思うのだ。
感慨に耽り、時には足を止めながら倉庫の中を見て回れば、奥にはもう一つ重たそうな扉がある。先ほどの部屋よりもさらに貴重なものがそこに収められているのだろう。
先ほどの鍵とはまた別の鍵でその重たい扉を開けた。
すう、と先ほどよりもなお冷えた空気が頬を撫でた。空調がこちらの部屋で切り替えられているのだろうか。真っ暗な部屋。それでも、扉を開けた瞬間、差し込んだ光が奥にある何か金属のようなものに反射した気がした。電気をつけて光った方へと足を向ける。そこにあったのは、桐箪笥。どうやら取っ手の金具が光を受けて光ったようだ。
桐箪笥には紙なども貼られていないし、特に何も記されてもいない。湿度を嫌う古文書などでもしまわれているのだろうか、とその黒い取っ手に手をかける。ひんやりと金属ならではの冷たさが手のひらにしみる。
ピリ、と指先に痛みが走った。なんだ、と思えば小指の先がざっくりと切れている。いつの間に切ったのだろうか。ダンボールも置いてあるから、どこかで切ったのかもしれない。
慌てて一度店に戻って液体絆創膏で傷口を埋めて、その上から絆創膏を貼って、さらに手袋をして戻ってくる。万が一でも古文書や布や掛け軸に血がついてはいけない。改めて箪笥に向き合って一番上の段を開けてみれば、そこには細長い紫の布袋が入っている。その時点でその中身の想像がついた。
日本刀だ。
わざわざ裏に保管しているくらいだ、相当の業物だろう。うきうきとしながらも紫の袋を手に取る。見た目に反して持ち上げた手にずっしりとかかるこの重さが、まさに日本刀を持っているという実感があっていい。しかし、うっすらと違和感を覚えた。その違和感を好奇心が上回る。
袋から取り出せば、出てきたのは拵付きの日本刀だ。いいものであればこそ、休ませ鞘とも呼ばれる白鞘の中で眠る刀を想像していたのに、出てきたのが黒々と光る晴れ着のような鞘なのだから、驚きもする。
それを見て、少しばかりがっかりした。祖父がそんな杜撰な管理をする人間だと思ったからではない。業物と分かっていてそういう保管のされ方をしているのは、たいてい目貫を抜いても外れぬ刀なのだ。美しく光を反射させていただろう刀身が鞘の中で錆び、元来の煌めきを失ってしまっている状況を想像すると悲しくなる。消失もせずにここに現存している時点で、誰かが大事に慈しんでいた事実は明らかだ。美しい姿で残っていることまで望むのがそもそもの間違いではあるのだが、つい期待をしてしまう。
試しに柄を握って少し腕に力を込めてみるが、思った通りぴくりとも動かない。やはり錆びてしまっているのだろう。
もう少し眺めていたいがまた後日にしようと、そっと袋にしまい直す。、桐箪笥の中に収めると同時に、ひらりと何かが足元に落ちた。
何かと思い屈んでみれば、一枚の紙だった。美術品を扱う際に頻用される薄葉かと思ったが、どうやらそうではないらしい。まさか古文書を落としてしまったかとぎょっとしたが、よく見ればそうではない。朽ちておりボロボロになってはいるが、最近の和紙だ。
「……ゴミ……?」
首を傾げながらもそれを拾い上げて倉庫の外へと出た。
倉庫を出るころには日もとっぷりと暮れていた。今日の仕事はおしまいだ。疲れた体を休めるために二階にある居住空間へと足を進める。自分の生活用品はまだほとんどダンボールに詰め込まれてはいるが、祖父の使っていたものはそのままで、これで十分事足りる。だが、退院したとしても、二階がメインの生活空間である以上この家では生活がしづらいだろうし、いずれこれらも整理する必要があるだろう。
寝巻代わりの着流しと下着をダンボールから漁って風呂に向かう。一仕事終えたあとの疲れた体に温かい湯がしみる。大きく息を吐きだしながら天井を仰いだ。古い家だが、老体にはさすがに危ないから、とリフォームしたおかげで風呂だけは新しく使いやすい。風呂全体にもくもくと湯気が立ち込めているが、そうでなくとも眼鏡をはずしてしまった今風呂の中にあるものの全容がつかめない。先ほども一本一本ボトルを目元に寄せては中に入っているものを確認した。
目を閉じて湯のぬくもりだけを感じる。自宅よりも広い風呂でのんびりと足を伸ばした。気持ちがいい。
足が地に着かないまま飛び跳ねる心はまだ静まらない。祖父の家には、いままで何度も来たことがある。でも、慣れていたとしてもあくまでここは祖父の家のはずなのに、今日から自分の家にもなる。不思議だ。今はまだ遊びに来たおじいちゃんの家という感覚から抜け出せずにいる。
いつもよりも少しばかりゆっくりと湯に浸かり、ばしゃりと水音を立てて風呂からあがる。
食事を済ませて人心地つくと、いきなり眠気が襲ってきた。ずっと興奮気味だったせいもあるだろう。うっかり居間で寝落ちかけて、這いずるようにして自室に戻って布団の中にもぐりこんだ。考え事をする間もなく、泥のような眠りに落ちていく。
文字通り、闇だ。そこは真っ暗だった。光ひとつ差さぬ場所だ。自分はその暗闇の中に立っているでも横たわっているでもなく、ただ闇があることだけを認識している。
突然、その闇を切り裂いていく細い光が現れた。
否、銀色に見えるそれは一振りの刀だ。真っすぐにこちらへ向けられたその切っ先が、自分の肩口に触れ、臓腑を切り分け、そして、体を真っ二つにした。冷たい、と思った直後に熱いと感じる。体が冷えきっていくなか、ふと自分の腕が重たい事に気が付く。ぶらりと垂らされた腕からぶら下がっているのは美しい刀身。真っ暗闇の中でも、青白く見える刃からは真っ赤な血が滴っている。
ああ、自分を切り裂いたのは自分自身なのだと、それを見た瞬間にはっきりと悟った。
朝が来た。寝間着が汗でじっとりと濡れている。不快感に眉を寄せながら体を起こせば、全身が異様に重たい。これほど疲れていたとは思わなかったが、予想以上に気を張っていたのだろう。全然疲れが取れている気がしない。
腕を回しながら台所へと向かう。米は寝る前に炊いているし、冷蔵庫には納豆も入っている。せめて味噌汁くらいは作ろうかと豆腐を切ってくつくつと煮立つ鍋の中に放り込んだ。簡単な朝ごはんではあるが、一品でも自分で作ると気分が違う。何より、小さいころからずっと朝は味噌の匂いを嗅いできたため、味噌汁のない朝はなんだか落ち着かない。味噌汁と炊き立てのお米をよそって席に着いた。
今日は常連さんのうちの一人が来ることになっている。なんでも古物の知識がかなり豊富な人らしく、色んなことを学ぶといい、とのことだ。
昨日のうちにいつもよりも少しばかりいい着物を吊るしてある。袴のシルエットが好きでよく袴を履いているが、今日は着物だけにするか袴も履くか大いに悩むところだ。販売と言うわけではなくとも、名目上自分が店に立つ初めての日だ。
時計を見れば、まだ六時を過ぎたところである。庭で素振りでもしてひと汗かいた後にシャワーを浴びようか。
素振り用の刀を選ぶ。今日は剣筋を確認しよう、と木刀ではなく模擬刀を選んで握った。日本刀と同じ作りではあるが、刃引きが行われており物は切れない。安価なものを使用するとうっかり折れたりするため、プラスチックのものではなく柄も木製のしっかりとしたものだ。こういう部分は値段に代えられるものではない。用途に合わせてしっかりと選ぶ必要がある。
何度も使っている相棒の柄の部分を握り込めば、しっかりと手に馴染んだ。しかし、わずかに違和感を覚える。不思議に思って手を見れば、昨日新しく貼り直した絆創膏が目に入った。こういう傷はできてすぐよりもその少し後が痛い。違和感はそのせいだろう。
改めて刀を握って、邪念と一緒に大きく息を吐きだす。刀を振り上げ、振り下ろす。寝起きのべったりと張り付くような疲れとは違う、心地のいい疲労感と共に、思考がクリアになっていく。ひゅ、ひゅ、と空を切る刀の音ばかりが聞こえ、不要な音は止み、どこかに閉ざされていくような心地がする。すっと、視界が狭まる。じわりとにじんだ汗で刀が手のひらにぴったりと吸い付き、一体になっていく。
足りない。
すっと体の中央に開いた穴を風が通り抜けていくようなうすら寒い感覚を覚えた。そして開いた穴に詰め込まれていくのは飢餓感、焦り、渇望。どくどくと鳴り響く鼓動がやかましいほどで、それを振り払うように何度も刀を振り下ろす。それでもその感覚は振り払えない。ズキリ、と指先から痛みを感じて、その瞬間はっと我に返る。
絆創膏が剥がれ、傷口の腫れた指先が顔を覗かせていた。振りかぶっていた模擬刀を下ろして汗を拭う。気が付けば思っていたよりも時間が経っていた。あわててシャワーを浴びて服を着替えれば、来客のある三十分前となっている。
お茶請けと湯呑をすぐに出せるようにセットして店の方へと出ようとしたとき。
ガタン、と大きな物音がした。
倉庫の方からだ。慌ててそちらに向かう。驚いて中に入ってみても、何も変わったところはない。念のため、さらに奥の部屋へと向かう。中を覗いてみても、こちらも特に変わったことはない。昨日見て回ったときに粗相があっただろうかと思ったが、そんなことはなかったようで、ひとまず胸を撫でおろす。しかし、よく見れば真正面の箪笥、先日自分が開いた段がうっすらと開いているのが目に入った。
「そそっかしいなぁ……」
自分のことながら思わずそう呟いて箪笥に手をかける。引き出しの隙間から見える紫の袋自体に何かが貼られた形跡があることに気が付いた。箪笥を開けて手を伸ばし、その袋に触れた。
そのとき、一番初めに抱いたのは安心感だった。袋から中に眠っている日本刀を引き出す。その柄を握り込めば、まるで自分の手のひらにあつらえたかのようにぴったりで、ほう、と息が漏れた。
自分の中に何かが満たされていく。同時に、じりじりと腹の底から焦がされていくような感覚にいてもたってもいられなくなる。ぐ、と柄を握る手に自然と力がこもった。刃は一ミリも顔を覗かせていないというのに、ずるり、と泥から何かを引き抜くような異様な感覚が腕を襲う。
なぜか、抜ける、と思った。
「抜くなっ!」
暗い部屋に怒声。
はっとして振り返る。そこには少し小柄な青年が般若のような険しい顔をしてこちらをにらみつけていた。彼は大股でこちらに歩いて来て、刀を持っていた腕を力強く握った。腕にあとが付きそうなほど強い力に、骨がきしんで痛む。それがただただ不愉快で、振り払おうと力を込める。
カラン、と音がした。
足元には紫の袋と黒い鞘が落ちている。手の中には青光りする刃。吸い込まれるような青に、自分の顔が映った。
目を開けると、どこかに体を横たえていた。布団の上ではない。体を起こせば、自分が畳の上で座布団を枕にして眠っていたことがわかる。そして、隣には自分と似たような年頃、三十前半くらいの男が腕組みをして座っていた。彼はこちらが目を覚ましたのを見ると、あからさまにほっとした顔をして笑う。
「よかった。なんともないか?」
その顔は、見覚えがある。幼いころから祖父の家に来るとよく見かけていた顔だ。それほど仲がよかったというわけではないが、こんな店には珍しくまだ若い子がやってきていること、明るい性格と、何よりその特徴的な名前が忘れられないからだ。前に顔を見てから随分とたっているが、おそらく間違ってはいないはずだ。
「ひらだいら、さん?」
「そうそう、平平」
あってるよ、と伺うように尋ねた自分に対して彼は答える。平平平平。平という字を四つ書いてひらだいら、へっぺい。そうそういない名前だ。先ほど倉庫で声をかけてきたのも彼だった。
しかし、あのときは彼だと気づかなかった。ただ、脳みそは彼のことを敵だと認識していたのだ。奇妙な感覚だが、そんなバカは話はないだろう。気のせいだとオカルトじみた考えを否定するが、否定を仕切れない。
「時間、何時だろ……」
「十一時半」
さぁっと血の気が引いた。お得意様と顔を合わせる予定だった時刻よりすでに一時間も経過している。それだけではない。大事な日本刀の鞘を地面に落としてしまってはいなかったか。どうしよう、どうしようと焦りばかりがつのった。
「どうかしたか?」
「平平さん、ここに誰か来なかったですか?」
「誰か? なんで」
「いや、今日は祖父のお得意さんが来る日でして」
平平は大慌てで頭を抱えている自分を見て、目をぱちくりとした。その顔にじわじわと笑みが広がり、そしてゲラゲラと声をあげて笑い出した。
「えっ、えっ、何がおかしいんですか」
「いや、なんだ! 聞いてなかったのか、霧生」
突然名前を呼ばれ、えっ、あっ、はいとよくわからない返事をしてしまう。
「お前のじいさんの客、そいつぁ、俺だ」
くつくつと笑いをかみ殺そうとして殺せずに笑っている。けれど嫌味な感じではなく、本当に面白くてたまらないといった様子だった。今度はこちらが目を瞬かせる番だった。
「え、平平さんが」
「そ、俺が。っていうかさん付け気持ち悪いから、へっぺーでいいよ」
「え、さすがに悪いんで平平君で」
譲歩して、名前にくん付けで許してもらう。記憶では、一応彼のほうが年上のはずだった。年上のよく知らない相手に名前呼び捨てはいささかハードルが高い。
「さて、で、なんでお前は倉庫にいたんだ? 店の準備は俺と一緒にするって話じゃあなかったのか」
そうだ。けれど掃除くらいはしておこうと思って前日からしていたのだ。その旨を彼に伝えると、眉根に深く濃い溝が何本か刻まれた。怒っているのはわかるが、なぜかはわからず身を固くする。
美術品を壊す可能性や取扱いの面が気になったのだろうか。だが、元から古物を扱う仕事をしていたため、基礎的な専門知識はある。細心の注意は払っているし、下手に箱をあけてぐちゃぐちゃにしないように置き場所もまったくいじってはいない。なのにどうしてそんな顔をされるのだろうか。
「俺が来た理由とか、本当に何も聞いてなかったのか?」
「何も聞いてない」
平平がああ、とうめき声をあげて頭を抱えて地面に突っ伏した。しかし、こちらは事情が分からない以上どうしようもなく、おろおろとその丸まった背中を眺めることしかできない。しばらく饅頭のようになってじっとしている彼を見つめていると、むくり、と体が起こされる。大きな深呼吸が行われる。
「……ふぅ。じゃあ、改めて説明するか」
「はい」
真面目な口調に、思わず正座をして背筋を伸ばし、居住まいをただす。きゅっと吊り上がった彼の目が、まるで獣のようにじっとこちらを見ている。その口がゆっくりと開いた。
「あんたのじいさんは曰く付きのモノを扱っていた。俺はお前にとって怪異のアドバイザーみたいなもんとして呼ばれたってわけ」
イワクツキ、カイイ、そんな言葉が脳内で変換されずに流れていく。音だけとなって形作られなかったそれに漢字があてはめられ、意味を成すのにたっぷり三十秒以上はかかった。そして理解をした結果、口から漏れたのは、はぁ、というなんとも間の抜けた声だった。
「おっま、信用してねぇな?」
「信用してないもなにも……こう、実感がなくて」
曰く付き。そういったものが世間にごろごろと転がっているということは、古物を扱う者なら一度は聞いたことがあるだろう。だいたい、古物というのはそう言ったものと縁が切っても切れない。前職でもそうであったし、学生時代一緒に学芸員資格を取りに行って博物館に就職した友人も見た、と言っていた。影が見える、センサー式の蛇口から水が勝手に流れる、自動扉が人もいないのに開く、というのはままあることなのだ。
とはいえ、それとこれとは話が別だ。怪異、曰く付き、そういったものがあるとして、怪異のアドバイザーとして人が呼ばれる、という現状には目を丸くせざるを得ない。それじゃあ古美術でも骨董でもなくゴーストバスターズだ。ジャンルがすっかり変わってくる。
「よくわかんねぇって顔すんなよ。さっきてめぇも日本刀に魅入られてたじゃねぇか」
「あっ! 日本刀!」
平平の言葉の続きも聞かずに勢いよく立ち上がり、倉庫へと向かう。鞘ごと落とした可能性のある日本刀の無事を確認しなくてはならない。制止の声を無視して倉庫へと進もうとする自分の袴の裾を平平が強く引いた。
「待て待て待て。今の話の流れで刀を見に行くやつがあるか」
「でも! 鞘が!」
ここで引いたら骨董屋の名が廃るというものだ。
「うるせーうるせー。いいから話を聞け。そのあとにしろ」
もう一度袴を引かれ、しぶしぶ座布団に戻る。骨董、その中でも特に自分が愛する日本刀に傷をつけていたら、と思うと本当にいてもたってもいられない気持ちではあるが、仕方がない。腰を据えた自分を見て満足したような顔で平平は話し始める。
「あれもいわゆる曰く付きってやつだ。持ち主はろくな目に合わない。実際あの刀を見てると気分が悪くなる」
「漫画とかである負のオーラとか、瘴気とかってやつ?」
「まあそんな感じだ。刀にこもった怨念が、ってやつだ」
なるほど、と頷く。日本刀、というのは現在は美術品的な側面が強い。しかしそれが武器として用いられてきた事実がなくなるわけではない。時代にもよるが、たいがいの日本刀の用途は武器であり、いかに切れるか、殺せるかが重要な部分となってくる。
「よくあるだろ、日本刀を手にしたら錯乱して、人を殺したとかいうやつ。あれだよ。日本刀が血を欲しているんだ」
「村正とか?」
「いや、あれは刀工の念がこもったってやつだろ? そっちじゃなくて、斬られた方の怨念な」
平平はつらつらと日本刀に関する話をしているが、不思議なことがある。
「それで、あの刀には何が憑いてるの」
「いや、幽霊がどうとかじゃなくて殺したものも、殺されたものも妄執としてだな。だいぶ多くの血を吸っているし」
それだけ聞いて、うん、となんとなく納得する。再び腰を上げた自分に、彼は目を白黒させる。
「待て待て待て、今の話聞いてたか?」
「聞いてたよ」
今度こそ彼の制止を振り切って足早に倉庫へと向かっていく。目指すのは、あの桐箪笥。迷うことなくその箪笥を開けて、日本刀を取り出した。鞘に何かが書かれた紙が巻かれ、和紙の紐で括られていた。それを外す。本来ならば絶対に白い手袋をはめて触れるが、今回ばかりは素手だ。それでいい、そうでなくてはならない。大慌てで追いかけてくる平平を無視して刀の鞘を見る。あれだけの衝撃を与えたはずなのに、傷一つついていなかった。
柄を握り、力を込める。その刀は、抜けなかった。
「馬鹿、何やってんだ!」
平平の怒りの声に首を振る。
「馬鹿じゃないよ。これでいいんだ」
あの美しい刀身を見たい気持ちはあったが、それでいいと思った。驚くほどすんなりと抜けた刀が、今は抜けず、この刀を手にしたときの妙な感覚は今はもうなりを潜めている。
「僕には、平平君の見えてる世界は見えないけど、でも、僕はそう単純なものじゃないと思うんだ」
刀を見つめる。漆塗りの鞘にはべったりと自分の指紋が付いてしまっている。普段ならまず間違いなくやらかした、と血の気が引いているところだろう。けれど手袋越しではわからないものがあるのだから仕方がない。
「人を斬りたくて斬る人なんてそう多くはなかったと僕は思いたいよ。ならなんのために。何か、大事なものを守るためだ」
この刀は、たくさん人を斬ってきた。たくさん、主を守ってきた刀でもあるのだ。それは正当化されるべきものだとは思わない。だが、それは刀として正しい使われ方をしてきている。認めるべきものだ。
「同時に、この刀で、たくさん未来を諦めた人がいるんだ」
どれほど無念であったかわからない。どれほど恐怖したかわからない。
「それを全部封じ込めるのは、違うんじゃないかな」
こうしてこの刀の形が今日に続いている以上、拒絶して消し去ることよりも、その事実を受け止めて誠意を尽くせるのなら。そう切に思う。追いかけてきた平平は未だかたい顔をしてこちらを見つめている。じっと黙っていた彼は、しばしの後に肩を落として大きなため息を吐いた。
「何かあったらすぐに連絡してくれ。絶対にだ」
「はーい」
気の抜けた返事を返せば、彼は信じられないものを見るような目をしてもう一度ため息を吐いた。
「というか、お前だいぶ気に入られちまってるからその刀と縁切るの難しいし、どっかに売るのもやめとけよ」
「えぇっ」
「売ったら相手方に祟るぞ」
「えぇ……」
そんなこともわかるのか、と思いながらも抜けない刀を今一度見下ろす。誰かの命を吸ってきたはずのその刀は、今しっくりと手になじんでいる。この刀は、今度は自分の命を吸うのだろうか。今の話からすればありえないわけではない。けれど、命を失ったように蔵で眠っていた刀にもう一度命を吹き込んでやることができるのなら。命を失ってもいいとは言えずとも、手に取らないという選択肢は自分にはなかったのだ。
「じゃあ、とりあえず指紋べたべたになっちゃったし、手入れしてやろうかなあ」
「あ、その刀、他の曰く付きを抑える役目もしてるからあまり倉庫から離しすぎるなよ」
「えっ!?」
本日何度目かわからぬ驚きの声を上げた。
「毒をもって毒を制す、だ。何事にもバランスがあるし、うまくできてんだよその辺」
また詳しく教えてやるから、と言いながら、彼がからからと笑うのを見ていた。
村雨堂、初めての日。たった一日で大きく人生が変わったような、そんな日だった。
その日、夢を見た。たくさんの人間が、自分をじっと恨めしそうに見つめている。真っ暗闇の中、自分の手の中にある刀だけが青白く浮かび上がり、漁火のようになっていた。
ぽかりと体に空いた穴が、あれを斬るようにと急かす。その穴の形は、恐怖とも、焦りとも、情熱とも、狂気ともとれる。徐々にその穴が広がって自分を飲み込んでいくような切々とした感覚が迫りくる。
斬れば終わる。そう確信していた。けれど、それを振るうつもりはなかった。深くそちらに礼をする。あなたたちの命は失われても、命を吸ったこの刀を明日へと持っていくこと。もうこの刀が悲しい誰かの命を奪わぬことが伝わるように。
恨めしそうな人々の姿はゆっくりと薄らいで、ついで背中から視線を感じた。元の刀の持ち主であろうか。殺気のこもった視線に臆することなく、しかし、振り返ることもせず、強く柄を握りしめた。
真っ暗闇、その先を切り開くように一閃。
後ろで見守る彼を守った刀が、きっと自分のこれからを切り開くようにとまっすぐに振り下ろした。人を斬らずとも、自分は先に進んでいける。後ろの気配は、すぅ、と溶けて消えて、そしてあれほどまでに穴が開いたようだった体の中央に収まった気がした。
礼をするように、黙祷を捧げるように、静かに瞳を閉じて、数秒。再び瞳を開ける。
暗闇はもうない。そこには誰もおらず、ただ自分と、今までみたどんな刀よりも美しい刀だけが認識できた。
この刀は、もうきっと人を斬らない。
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