たえて桜のなかりせば

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たえて桜のなかりせば

 ガタンゴトン  線路の切り替わりの度車両が揺さぶられ、ゴウゴウと響く風の音と共に電車特有の騒音が響く。  外を見れば抜けるような青い空と、山の木々と、まだ硬い蕾。風が吹くたび揺れるそれをぼんやりと横目で眺める。コートを着込んで百十デニールのタイツを履いているのに、スースーと足元が冷える。人が電車に乗り込むたびに開くドアから冷たい風が車内に侵入してくるせいだった。  自動でドアが開く区間を越えて、電車はどんどん人の少ない寂れた方へと向かっていく。目的地はあと五つほど先の駅。その駅がやけに寂れていること以上のことを、私は知らない。知らないその駅へと、私は向かっていく。外の景色をぼんやりと見つめながら。変わり映えのしない田舎の景色は珍しくもなんともない。ただ、その中に見つける影を追いかけながら、なんてことのない景色を特別な何かへと変えていった。  それは魔法のようだった。 「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」  教壇に立った先生は、その骨の浮く指でチョークを握った。カツカツ、と音を立てて綺麗に清掃された黒板に白い字が刻まれていく。流麗な字、というわけではないが読みやすく整った字が並んだ。記述を終えると、先生はこちらに向かって和歌の解説を行う。それをうとうとしながら聞いていた。  世界に桜がなければ、なんて大げさな話だ。いくら桜が美しすぎて散ることに一喜一憂するからといって、なくなってしまえなんて、乱暴すぎると思った。平安の人々にとってはそれが雅、というものなのであろうが、全くそうは思えなかった。 「この歌には、有名な反歌があるんですよ」  そう言って、先生はさらさらとその横にもう一首書き加えた。 「散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世になにか久しかるべき」  散るからこそ花は美しい、永遠などないというのもまた、なんだか随分と極端な話だ。桜はいつだって、咲いて美しいな、といっていつの間にか散っている。それを悲しいとか勿体ないと思ったことなんてなかった。  昔の人の言葉を知ったからといって、何になるんだろうか。和歌も俳句も詩も、何一つ役に立ちはしないのに。 「桜は昔から色々な言葉で語られてきました。美しいものとして、禍々しいものとして。けれども、私たちがその感覚に従う必要なんてありません。表現の仕方にとらわれることもありません。時代とともに移り変わるものだってあるでしょう」  そう言いながら先生は窓の外を見た。 「今年も桜が美しく咲いていますね。来年もきっと同じように咲くんですよ。でも、今咲いている桜と同じとは限らないんですよ」  風がカーテンを揺らす。少しずつ暖かくなってきた空気が教室内に運ばれてきた。 「こうして皆で見る桜と、卒業して新しい道を歩みだしてから見る桜、果たして同じ気持ちで見ることができるでしょうか……いや、できない」  ふふ、と先生は笑う。 「あ、これは前に漢文でやりましたね、反語です」   くすくすと教室内に笑い声。何が面白いか分からずに、なんとなくつられて笑った。  ガタゴトと揺られている車窓から見る景色には、あの日の桜はない。桜の時期にはいささか早いのだ。でも、ひと月もすれば風に乗せられて薄紅の花弁が舞うだろう。そのとき、自分はどういう気持ちでその桜を見ているだろうか。 「先生」  ガラリと国語準備室の扉を開ければ、いつもそこに彼はいた。白髪の増えた髪を後ろに撫でつけて静かに本と向き合っていることが多かった。その日も、彼は国語の本をめくっていた。パラパラとページを、めくる手を止めてこちらを見る。 「あぁ、小野さん」 「提出のノートを持ってきました」  クラスメート全員分のノートを彼の机に置く。彼はありがとうと小さく礼を言ってまた本に目を戻した。読んでいたのは古文の参考書だ。本の匂いのする静かなこの部屋には、なんだか空間全体で拒まれているような気がして、そそくさと部屋を後にしようとする。 「小野さんは、国語は苦手ですか?」  投げかけられた言葉に足が止まる。どうしようもなく気まずく、早くこの部屋から出ていきたかった。いつだって国語の点数は赤点ギリギリ。基本問題だけなんとか抑えて、文章問題は部分点で稼ぐのが精いっぱいだった。 「なんか、作者の考えを想像しろっていうのが苦手で」  問題の意図が分からない、というのはやめた。 「ああ、なるほど。それは、国語が楽しくないですねぇ」  彼は穏やかに言って、手に持っていた参考書を机の上に置いた。最初は詰られているのかと思ったが、彼の表情は柔らかく、どうやらそういった意図はないようだ。 「……別に、楽しくないわけじゃ」  心にもないことを言う。国語は嫌いだ。 「いいんですよ。僕も国語のテストは嫌いだし、面白くもなんともない」  思わず目を丸くした。国語の先生は国語が好きだとばっかり思っていたのに。面白くない、と言い切った彼は拗ねた子どものような顔をしていた。 「え、先生がそんなこと言っていいんですか」 「あぁ、誤解しないでください。国語の問題は嫌いですが、国語という科目自体は好きです」  ふふ、と笑いながら彼は問題集を取り出す。そして、とある一問を指さした。それは現代文のテストで、私の特に嫌いな作者の考えを述べる問題だった。それを指先でなぞりながら、先生は笑う。 「作者の意図なんて答案に書いちゃだめですよ。書いていいのは、本文にあることだけ。要するに国語のテストは本文に線を引いて引っこ抜くテクニック問題です。想像の余地はない」  そう言って、接続詞や問題文に関係のありそうな要所要所の単語にくるりと丸を付けていく。そしてそこを中心にす、す、と鉛筆を滑らせた。本文に幾本もの線が躍る。楽譜か何かのようだった。 「想像しようとするから大変なんです。覚えるのはちょっと大変かもしれませんが、こうして必要な部分を抜き出せるようになったら大丈夫ですよ」  正直、どうやって抜き出しているのかが分からなかったが、曖昧に頷いた。それが簡単に出来たら、おそらくもっと早くに国語の点数は上がっているだろう。  一通り説明を終えると、彼はパタンとその問題集を閉じる。詳しいことを聞かれなくてよかったと思った。もし同じようにやってみてくださいと言われたところで、答えることなどできやしないからだ。 「想像するのはもっと自由なんですけどねぇ」  先生は、小さく息を吐いた。 「どういうことですか?」 「国語のテストでは想像しろ、と書いてありますが、答えは決まっています。でも、想像って本当は何を考えてもいいんですよ」  言っていることが抽象的過ぎて、よくわからなかった。 「作者が何を考えてるのかなんてわかるわけないんです。身も蓋もない話をすれば、本当は何も考えていなくて、後々我々が勝手に解釈をつけただけかもしれない。反対のことを考えていたかもしれない。実は物語には続きがあるかもしれない」 「……はぁ」 「自由に想像してください。あなたがどう思うか、それは誰にも決められているものではありませんから。それが私の国語の楽しみ方です」  あとはそうですねぇ、と彼は遠くを見た。 「遠く、遠く昔の人や知らない人が何を考えていたのか、自分の知らない世界ではどんなことが行われているか、それを考えるとっかかりになるから、国語というのは面白い」  熱く語っている先生の話をこれ以上聞いているのも面倒臭くなって、薄笑いを浮かべてその場を後にした。    国語が嫌いな科目だというのは変わらなかった。だが、少しずつ点数は伸びた。先生は質問をすれば丁寧に教えてくれたし、登場人物や作者の気持ちを考えろということは一切言わなかった。ただただテクニックを教えてくれるのは、自分には合っていたのだと思う。 「小野さん、国語は嫌いですか?」 「あんまり好きじゃありません」  いつの間にか、国語を嫌いではないというのをやめていた。 「そうですか、特に古文が苦手みたいですね。では漫画は好きですか」 「割と読みます」  そう言うと彼が取り出したのは一冊の少女漫画。表紙には着物を着た女性の姿がある。先生は少しはにかんだ。 「いい年したおじさんがこういうのを買うのは少し恥ずかしいのですが、この漫画は面白いですよ。あげます。他の生徒には内緒ですよ」  差し出されたその本を受け取った。  ぱらぱらとページを捲る。本当に、よくある最近の漫画のようだ。その漫画は国語が、特に古文が苦手な私でも読みやすく、そして歌と恋愛を絡めた構成だった。ところどころ和歌の解説が入っている以外は普通の漫画と何も変わらず、これなら気負わずに読むことができそうだ。なんの知識もなくとも読めるように、少し解釈を入れながら現代語訳をしてあるのもうれしい。  字面で乾いた表面的な意味でしか受け取れなかった和歌が、ストーリーでもってわかりやすく表現されている。  たった三十一文字。されど、三十一文字。その中に、時に笑い、時に怒り、時に泣き、そうして生きた人の姿を知る。わからないだけであった和歌の意味を、たんなる現代語訳が脳内で通り抜けていくのではなく、実感をもって知れた気がした。書かれていることを超えて想像するというのは、こういうことだろうか。  何度も読み返してすり減ったその漫画を膝に置き、電車のアナウンスを聞いた。目的地まではあと一駅。田舎の一駅は長い。まだだろうかと思っているうちにうとうととして寝過ごしてしまいそうだ。それでも、どこか興奮しているのだろう。そうなる前に目的の駅にたどり着く。  電車から、寂れたホームへと降り立つ。あぁ、この駅だ。一度だけ先生が言っていた彼の家の最寄り駅。何もないと彼は散々言っていた。ただ、桜はきれいだとも。  見回しても桜はない。きっとまだ早すぎた。  目を閉じて、暖かくなってきた風を頬に感じる。そよそよと木々の葉がすれる音に耳を澄ませば、桃色の花弁が降り注いでいる場所に立っている気がした。  目には見えないけれど、今ここに美しいものがある気がする。まだ細くゴツゴツとしか見えない枝は、きっとしばらくすれば美しい花を咲かせ、そして散っていくのだろう。  儚い。先生は、なんて言っていただろうか。わび、さび? 幽玄? どれがどれだったか、自分にはよく思い出せなかった。だが、先生に尋ねればきっとこの状態にも名前を付けてくれるだろう。遠い昔の人が感じた感情を、この現代の自分に重ねて、それは、何それというんだよ、と穏やかな声で告げてくれるだろう。  桜は、咲かない。なのに、自分の中に息づく桜は一体いつの桜なのだろう。  明日は卒業式だ。  そして大学に行くために四月にはこの町を出る。 「私、もう少しこのセーラー服を着ていたいな」  去年はきれいだと思った桜を、今年は咲かないでほしいと願ってしまう。先生が去年言っていたことを思い出した。
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