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その7-5
「.......で、何をお知りになりたいのかな」
大叔父上の表情にふと影がさす。
「右京大夫さまの大学寮での日記を拝見しました。......霞藍の君と真木の参議の関わりの真相が知りたい」
康賢が少々躊躇いがちに視線を上げる。
「知ってどうなさりたい?」
「逢わせて差し上げるのじゃ。......まことに想いあっていたなら、再会させてやるのが人情であろう」
身を乗り出して息巻く宮さま。どうどう、落ち着いて。
「......霞藍の君さまは、内裏にて真木の参議をお待ちです。今も......」
「そう.......なのか。いまだに...」
俺の補足に深い息を吐く大叔父上。
「あの日記を記してからはや五十年近くになるというに......まだお待ちなのか」
「いったい何故に?」
康賢が少々訝しげに大叔父上に問う。
「右京大夫どのはあの日記を大学寮に残されたのですか?私が持っているのは写本の一冊ですが」
「まぁひとつは大学寮には様々な作法やら慣わし、禁忌があってな。.......その覚え書きのようなもので、後任に託したのだが」
ゆっくりと白湯を口に含む大叔父上。老いたりとは言え、指使いは優雅。モテ男は幾つになっても優美なものだ。
「......霞藍の君さまと真木の参議のお話は禁忌なのですか?」
俺の問いに大叔父は瞬時、辺りを窺い、おもむろに口を開いた。
「他言無用に出来ますかな?.....喬望殿には少々耳の痛い話かもしれませんが......」
「構いません」
深く頷き、息を詰める俺たちに、大叔父上は小さく頷き返した。
「真木の参議はよう仕事のお出来になるお方でした......」
真面目で実直、それが出世志向の宮中では大貴族たちに煙たがられていたという。
「......霞藍の君さまとは具体的に何かあったというほどのことではなかったと思います。お文を交わす、宴席で親しげにお話をなさる。.......私どもの眼に入ったのはそれくらいです」
真相はわかりませんが、と大叔父上は付け加えた。
「ならば、なぜ参議を留学に?」
まぁ疑わしきだから、留学で済んだ、という話もある。
「......霞藍の君さまは、当時の帝が最も寵愛されていた皇子でした。.......母君はそう身分の高くない女御でしたが、才知に優れた美しい女人で、帝はことのほかお気に入りでした。......皇后さまの悋気を被ることも多く.....」
「皇后さまは何処の?」
おそるおそる尋ねる俺に康賢が耳打ちした。
「式家の姫だよ......」
「あ、あぁ......」
思わず頷く俺に宮さまが怪訝そうな顔をする。
「つまり......藤原の姫の皇后さまは、帝が霞藍の君さまを立太子するかもしれない、と恐れたんですね?」
「そうじゃ」
苦々しげに首肯する大叔父上。
「まだ、我ら藤原とて、帝に完全なる信用は無かった。他家の真木の参議の重用は厄介だったし、藤原の血を引かぬ皇子が皇太子になるのは好ましくなかった」
「だからお二人の関係を取り沙汰して排除を......」
いわゆる政治的陰謀ってやつね。うん、わかるわ。祖父さま達も結構えげつないもんな。だから宮仕えなんて嫌なんだよ。
「まぁお二方とも野心の無い控えめな方でしたが......」
それでも二人は引き離され、霞藍の君は病でみまかった。
その事を俺が口にすると、大叔父上が眉をひそめた。
「霞藍の君さまも、真木の参議も病でみまかられた......と世には伝わっておりますが」
え?大叔父上、それはもしかしたら......。
「皇后なり式家の者が手にかけたというのか?」
宮さまの問いに大叔父上が小さく首を振った。
「参議を煙たく思っていたのは式家だけではありませんから......。霞藍の君さまに懸想をしていた輩は他にもおりましたし.....」
あ、なんか聞いたことがある。曾祖父さまの甥の誰かが、霞藍の君に言い寄ってこっぴどく振られた話。
でも、失恋の腹いせに宮さまや参議を罠に掛けたり、毒盛るなんて最低じゃん。
「つまりは互いに想い合っていたけど清らかな仲だったのに、政治的思惑で引き裂かれた.......てこと?」
可能性はある。
「じゃあ尚更、忘れられないじゃん!」
あれ?宮さま、眼が潤んでますよ。
「絶対に逢わせてあげなきゃ!」
そうだね。そう拳握りしめないで、指が真っ白になってますよ。力を抜いて。
「でも、参議はなんで都に入ってこないんだろう?」
ー結界ですよー
康賢が答えた。大叔父上がこっくり頷いた。
「参議は宮さまに唐から簪を土産に持ち帰る約束をしていたそうです。或はそれも......」
「簪?」
「真木の参議の血縁の者が、近江守に任ぜられています。訪ねてみられては......」
俺たちは大叔父上の言葉に頷いた。
ふと庭先が騒がしくなった。
「上人さま、お呼びですか?」
数人の子ども......十二三歳から五歳くらいまでの少年少女が数人、と中年の男女が後ろからついてきた。
「おぉ、こちらのお方がたがな、金子と米と絹を下された。菜を買うて、みんなでお上がり」
「肉も?」
男の子がキラキラと目を輝かせる。
「勿論じゃ。.......絹は綿に替えるといい。上衣が頭数分作れるじゃろ」
ニコニコと子ども達に笑いかける大叔父上。
「あの子達は?」
「先の流行り病や東国の乱で親を無くした子らじゃ。この庵の近くに住まわせて、畑を作ってもろうとる」
わ~いと声を張り上げて世話人らしき男の小屋に駈けていく背中を大叔父が穏やかな眼差しで見送る。
「紙も大層いただいたから、手習いもさせてやれる。右大臣どのにようお礼を申しておくれ」
帰り際、大叔父から父へと預かった小袖からは微かに黒方の香の薫りがした。
「今度は筆もお持ちします」
と俺が言うと目尻に刻まれた深い皺が少し緩んだ。
「あの軸の絵は、霞藍の君さまですね......」
帰りの牛車の中、康賢の言葉に、土産の唐菓子を頬張りながら、宮さまが深く頷いた。
「次に目指すは近江じゃな、喬望」
「あ、やっぱり.......」
そうだね。と首肯しながら、俺は耳に触れた『政治的思惑』という言葉がやけに腹立たしく、何か苦いものが胸に広がるのを感じていた。
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