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胸がざわめく。これは良い方のざわめきだ。
嬉しそうに感謝をくれたうめだが、感謝するのは私の方だろう。それほどに私は救われていた。
両手で弾けなくとも、笑顔は見られると気付かせてくれたのだから。あの公演が、演奏の記憶の最後になると思っていたのに。
「戻れない場所を見続けても意味がない……か……」
コンサートホールを諦めたい訳じゃない。会場で響く音を吹っ切った訳でもない。けれど、再び手に入れることは出来ないと、私が一番分かっているから。
だから、私がちゃんと別れを告げなければ。過去じゃなく、未来を変える為にーー。
***
「先生! 中々来られなくてすみません!」
勢いのいい入室を受け、岸が入ってくる。部屋にはうめもいた為、初めての三者対面となった。胸に抱いたある一件のせいで、一瞬気まずさがよぎる。だが、切り替えた。
岸はうめの正体に気づかないらしく、関係性を問ってきた。友人だと告げると嬉しそうにしてくれた。
空気を読んでかうめが立ち上がる。反射的に裾を掴み、次の動作を止めた。
「出来ればここにいてほしいんだけど……」
「分かったよ!」
やり取りを不思議そうに見る岸に向け、真剣さを整える。あの日から数週間、私はずっと彼の訪れを待っていた。
「岸さん、早速で申し訳ないのですがお話があります」
「えっ……まさか悪い知らせとかじゃ……」
狼狽える岸を前に、少しばかり決意が引っ込みそうになる。だが、うめの頷きで留めた。
あれから何度かうめと連弾した。子ども向けの簡単な曲ばかりではあるが、メロディを紡ぐ喜びは変わらなかった。笑顔を向け合う度、居場所は何も会場だけじゃないーーそんな気持ちになった。
「岸さんにとっては悪い知らせかもしれないです。でも、聞いて下さいますか?」
「……ってことは、先生にとってはいいお話なんですね」
私の穏やかさを受けてか、岸も穏やかに笑う。腰かけたのを見計らい、告げた。
「私はもう、ピアニストには戻りません。岸さんや待っていて下さる皆様には申し訳ないですが……。でも悲観的に言っているわけではありません。私は私の為に戻らないと決めたのです」
凪のように静かに、恐れを悟らせないように。繕って伝えるも、内心では返答を怖がっている。
失望させたら、悲しませたら。負の反応、全てが怖い。けれど、シュミレーションは繰り返した。全部全部、覚悟の上ーー。
岸は顔面を強ばらせ、数秒黙っていた。だが、突如として泣き出す。
「すみません僕、何も知らないで勝手に期待をぶつけて……先生もお辛いのに」
「い、いいんですそれは! 私を想ってのことだと分かってますし、岸さんには本当に感謝してるので」
意外にすんなり受け入れられて、拍子抜けしそうだった。蟠りが突然解け、不意な笑みまで零れてくる。それを見て、うめも大きく笑った。
「でも、これで本当に先生のピアノ聴けなくなっちゃうんですね……寂しいけど、先生が前を向こうとしてるなら私も応援を……!」
「あ、そのことなんですが……」
うめと見合う。先を思うと緊張したが言い切った。きっと岸なら大丈夫だ。
「一度、遊戯室に来て下さいませんか?」
これが今の私だと。彼女と二人、笑って音を奏でよう。
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