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最近は岸も忙しいのか、あまり顔を見せなくなった。ただ、彼の願いは変わらないようで、一瞬顔を見せては回復を願って帰っていった。
音の世界で精を出す彼に、劣等感を感じることもある。けれど、以前よりは確実に減った。その理由はきっと。
「喜一さんは食べ物何が好き?」
「そうだなぁ、甘いものは好きだよ」
「私も!」
出会って以来、うめが部屋に来てくれるようになったからだ。
聞いた話、彼女は病院のナースと知り合いで、頼まれて演奏に来ていたらしい。真夜中にぬいぐるみを取りに来たのは、単純に『あの子がいないと眠れないから』だそうだ。
私がピアノを避けていると察してか、うめは話題を持ち出さなかった。無論私からも。ただ、気にならない訳ではない。
将来を約束され、光輝いている最中での事故ーーしかも腕を切断するほどの大事故を彼女は経験したのだ。
心の中では何を考えてるの? 未練はないの? ピアノとどう向き合ってるの? 怖くはないの?
聞きたいことは山ほどある。だが、似た境遇だからこそ尋ねられなかった。
「じゃあ私そろそろ行くね。喜一さんは一緒に行かない?」
「うん、やめておく」
「ん、じゃあまた明日ね!」
大きく手を振る動作に、小さく笑みを溢す。控えめに振り返すと、うめは嬉しそうに出ていった。
うめは私のことを何も知らなかった。彼女自身がメディアを避けているのか、はたまた親がそうさせているのか。どちらにせよ、素性を知られていないと言うのは幾分か心が楽だ。
うめのメロディが聞こえる。まだ少し心が痛くなるが、今はそこに新たな感情が足された。とても小さく、消えてしまいそうな感情だけどーー。
私も、うめのようにピアノと向き合えたら。
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