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「それじゃ僕はそろそろ。先生の復帰、お待ちしてますからね!」  曇りのない期待を岸は残して行く。私はただ頑張りますとだけ言い、笑って手を振った。  うめと話をし、再び前を向こうと思ったのは本心だ。だからと言って、簡単になかったことにはできない。  どれだけ願おうと、私はあの場所に戻れない。岸の期待にも添えない。これらは、どう抗おうと覆せない現実なのだ。  ゆえに、彼の帰宅後はいつも強い心痛に駆られた。 「さっきの人、喜一さんのお友だち?」  すれ違いで入ってきたうめが、他愛ない会話の如く尋ねてくる。どうやら、岸から声はかけられなかったらしい。元マネージャーだと伝えると、これまた自然と会話を終わらせた。だが、裏腹に私は上手く切り替えられなかった。 「……どうかしたの?」 「えっ」 「しゅんとしているように見えたから」  言い当てられ、正直に答えるべきか悩む。しかし、変に強がったところで意味はないだろう。むしろ、気を使わせる気がする。 「……あの人、岸さんって言うんだけど、私が再び舞台に戻るのを本当に楽しみにしてくれてるんだ。けれど、私はもう戻れないから彼を裏切ることになってしまうのが辛くて……」  可能なだけ流暢に、深い苦痛を見せないよう伝える。だが、うめは私が思うより悲しげに眉を曲げた。 「それは辛いね。私は最初から絶望的だったし、そういうのなかったから想像でしか言えないけど、本当に辛いね……」  想像でしかないとは言いつつも、うめは相当心を痛めてくれているようだった。それほどまでに繊細な彼女が、どのようにして今を手に入れたのか知りたいーー。 「聞かれたくないことかもしれないけど、聞いてみてもいい?」 「いいよ」 「うめちゃんはどうやって向き合ったの? 周りの人ともピアノとも……」 「うーん、そうだなぁ……」  過去に足を突っ込んだのに、うめは思ったより冷静だった。いや、冷静を装っているのか。  何にせよ、彼女の答えにヒントが隠れている予感がある。消えない悪夢と向き合うためのヒントが。  うめは答えを決めたのか、一度頷いて立ち上がった。私の前、右手を差し出してくる。 「嫌かもしれないけど、一回だけでいいの。遊戯室に来て、一緒に椅子に座ってくれない?」
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