二、ペチカ

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二、ペチカ

 大晦日の夕暮れ、黒田は貴船の自宅を訪れた。  明くる朝――つまり元旦に横浜港を出立する定期船で、黒田はドイツに渡る。その前のただ一夜を、貴船と過ごすと決めた。  昨夜の雪はやみ、澄んだ夕空に細い月が出ていた。  貴船の実兄が構えた広大な屋敷の敷地内には人の気配がなく、ひっそりと静まりかえっている。離れの玄関を開けると、フランネルのガウンを羽織った貴船が現れた。暗紅色のガウンの中には襟の高い、黒いセーターを着ている。 「冷えるから、これを」  そういいながら黒田の外套と背広を脱がせて、ガウンを着せてくれる。貴船が着ているのと同じフランネルの、しかし漆黒のガウンだった。 「今日はピアノを弾こう」  玄関脇の洋間に通された。室内は暖かい。奥にりっぱな暖炉がしつらえてあって、あかあかと火が上がっているのだった。  部屋の中央には艶やかな黒檀のピアノがある。  ドイツから輸入されたブリュートナー社のピアノであることを、黒田は知っていた。 「貴船、弾いてもいいか」 「好きなように弾いてくれ」  黒田はピアノの前に腰かけて鍵盤に触れた。  明るくて深い音色にぞくりと鳥肌がたつ。思い浮かぶままにいくつかの旋律を弾いた。  貴船はどこからか火酒(ブランデー)の瓶と大ぶりのグラスを持ってきて、ピアノの蓋の上でなみなみと注いでいる。 「窓掛けが厚いから、あんまり音が良くないな」  グラスを口に運びながら貴船が呟く。  彼が言うとおり、窓にはたっぷりと襞をとった繻子織りのカーテンが引いてある。暖炉の床に敷かれた豪奢なペルシア絨毯も、ピアノ本来の音の反響を吸収してしまうらしかった。 「そうかな、俺は気にならないが」 「黒田はピアノの前に座っているからだよ。……代わって」  貴船がそっと黒田の肩を押して立ち上がらせ、先ほどまで自分が飲んでいたグラスを押しつけてくる。それからピアノの前に座ってぞんざいに鍵盤をたたき始めた。  黒田は打ちのめされた。  こんな強靭な打鍵が、この細い身体から生まれるのが信じられない。  忘れかけた嫉妬がまたくすぶりだした。 ――この音を、俺は出せない。  めちゃくちゃに鍵盤をたたいていた貴船がふいに旋律を奏ではじめた。  ちらりと黒田に目くばせしてくる。  黒田はグラスの中身をひといきにあおった。そして、すでに身体に沁みついているそのドイツリートを歌いはじめた。  貴船がふざけて、途中でいきなり曲を変える。イタリア・オペラのアリアだ。いたずらっぽい顔をされて、黒田もむきになってついていく。また変わる。ついていく。変わる。ついていく。  悪乗りした貴船が次に弾いたのは、ソプラノの女性歌手のためのアリアだった。高音が長く続くことで有名な難曲である。  黒田はわざとおかしな裏声でそれを歌う。  貴船が吹き出す。  しまいにはふたりで大笑いした。  大笑いしながら、気づいたときには唇を貪りあっていた。黒田は貴船を抱え上げて暖炉の前まで連れていく。ガウンもセーターも洋袴もすべて脱がしてペルシア絨毯の上に押し倒した。  真っ白な裸身をあかあかと燃える暖炉の火にさらして、貴船がひっそりと笑う。 「昨日みたいに、してよ」 「……っ」 「昨日みたいに、乱暴にして」  冷たい手のひらですうっと頬を撫でられた。その指をとらえて強く噛む。  この指で、ピアノが弾けなくなればいい。  いや、この指が欲しい。才能が欲しい。  黒田は貴船の頸を噛み、肩を噛み、胸の突起を力任せに噛んで歯形を残した。貴船が短い叫び声をあげて、黒田の髪に指を潜らせる。  暖炉の熱と、夢中になって貴船を抱いているせいですぐに汗みずくになった。しかし貴船の身体はひんやりと冷えきったままで少しも熱をもたない。黒田は焦れた。 「貴船、お前が欲しい。お前の才能が」  ああ達く――、そう思いながら口走った。  貴船は黒田の首を引き寄せて呟く。 「俺はずっとお前とともにいるよ、黒田」 「嘘をつくな。俺はどうすればいい? 死ねばいいのか。死ねば、お前のところに行けるのか」 「馬鹿。お前が死んでどうする。今のままでいいよ。今のお前がいいんだ。……あっ」  貴船が目を閉じて身体を震わせ、結局ふたりで達った。  黒田が荒い息を吐いていると、貴船が薄目を開けた。かすれた声で呟く。 「暖炉の火を、変ホ長調。四分の四拍子で」 「……うん?」 「調和のとれた(まった)き幸せの……暖かく満ち足りたこのひとときを、お前ならどう歌う?」 「ええっ」 「即興で。はいっ」  黒田は慌てて思考を巡らせて、でたらめな旋律を口にする。  貴船が喉の奥で低く笑った。 「へたくそ」 「笑わないでくれ」 「こんなのはどうだ」  貴船が小さな声で口ずさむ。明るくおだやかな欧州風の旋律に、日本のことばが乗る。歌詞がドイツ語や英語でないことに黒田は驚き、そして聴き入った。 「日本語の歌なのか」 「あたりまえだ。俺は自分の言葉を歌にしたいんだ。……黒田」  貴船が熱を帯びたまなざしで見つめてくる。それを黒田は受け止めた。 「俺の歌を歌え。俺の音楽を――遺してくれ」  黒田はうなずいて、貴船の希みを胸に刻む。  彼が生きて果たせなかった志を思う。  細い身体を腕の中に包み込んだ。
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