一、雪の夜

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一、雪の夜

 明治三十年代の終わり、十二月三十日。東京府某所――  この年の瀬は大雪になった。  ずいぶん夜も更けたころ、黒田は下宿の手前で腕車を降りた。  青白いガス燈に照らされた表通りから路地に入るととたんに暗くなる。  それでも民家の軒先から漏れる明かりが雪に反射して、歩けぬことはなかった。あざといほど赤く咲いた山茶花(さざんか)の生垣にも厚く雪が積んでいる。  ――この情景を、貴船ならどう作曲するだろう。  ふたたびそのような思考にとらわれて苛立ちがぶりかえす。  乱暴に泥まみれの雪を踏んで歩いた。革靴が濡れて汚れるのもかまわなかった。  下宿の玄関を開けかけたとき、背後から声をかける男があった。 「今日の音楽会もよかったな」  黒田は振り返らずにじっとその声を聴いた。そして怒りを抑えて返事をする。 「あの場で盗み聴きしていたのか。趣味が悪いな」 「そんないじけた言い方をするなよ」 「いじけてない。……何しにきた、貴船」 「お前の顔を見に来たんだよ、黒田」  黒田はうつむいて深呼吸する。それから振り返った。  雪の積んだ赤い山茶花の生垣の陰から、貴船がひっそりとこちらを見ていた。  学生服にそろいの外套を羽織って、白い顔に笑みを浮かべている。降る雪がしきりに外套の肩にかかった。  春先の短い逢瀬のあと、ひとときも忘れられなかった美貌である。おもわず見とれかけて、あわてて目を逸らした。 「俺はもう見たくない。帰れ」 「追い返すのか。俺はどこに帰ればいい?」 「知るか」  戸を開けて中に入ろうとしたところで、耳に温かい吐息がかかった。 「会いたかったよ、黒田」 「……どの口が言うっ」  抗議しようと振り向いたところで柔らかい唇に口をふさがれた。 「やめろっ」  一瞬でも貴船の口づけに溺れそうになった自分に腹が立った。力を込めて肩を突き放す。  貴船は先ほどと同じ笑みを浮かべたまま、二、三歩後ずさった。  黒田は肩で息をしながら彼を見た。 「……今さら、何の用だ」 「つれないことを言うなよ、黒田」 「勝手に俺の前に現れて、消えて、……そしてまた現れた。どれだけ俺を惑わすつもりだ」 「惑わすつもりなどないよ」 「俺が望むならいつでも会えるといったのに」 「だからこうして会いにきた」  貴船がふわりと間合いを詰めてきて、もう一度唇を重ねてくる。  幾度も夢想した懐かしい感触に身を任せるしかなかった。  貴船の頬と髪は冷え切っていた。彼が長いこと山茶花の生垣の陰にたたずみ、自分を待っていたのだと思うと、何も考えられなくなる。  昨年の春、貴船は志半ばで胸を病んで逝った。音楽学校で作曲とピアノの才能を嘱望され、生きていれば今回、文部省の公費留学生として欧州に渡るのは彼であったはずだった。  その、死んだはずの貴船が、今年の春彼岸に忽然と姿を現した。黒田とともに過ごした数日のうちにいくつもの旋律のかけらと忘れがたい恋情を遺し、満開の桜が散るとともに――また姿を消してしまったのだった。  いま貴船は、散らかり放題の黒田の部屋に上がりこんで、おかしそうに見回している。 「ずいぶん荒れた生活だな。家政婦は雇ってないのか」 「このところ断っているんだ」 「言い寄られたんだろ」 「そういう下卑た言い方はやめろ。……なんで知ってる?」  床に散乱した書籍や五線紙をよけて、薄い万年床に腰を下ろそうとしていた貴船が、顔をあげて吹き出した。そして芝居がかったしぐさで腕を広げ、黒田を称えるような素振りをする。 「お前は官費で留学するような音楽家なんだぜ。しかもこんな美丈夫だ。そんな男がいまだに所帯も持たずにいたら、女は誰だって言い寄りたくもなるさ」 「貴船。それは本気で言っているのか」  黒田は貴船を睨みつけた。 「賞賛されるのは俺の才能じゃない。お前の才能だ。お前があのとき押しつけていった作品を、俺は五線紙に書き写して発表しているにすぎない。今日の音楽会だってそうだ。皆が称えるのは俺の音楽じゃない。お前の音楽だ。この気持ちがお前にわかるか」  言いつのる黒田を、貴船は静かなまなざしで見ている。そしてゆっくりと口を開いた。 「ねえ、歌って」 「えっ」 「歌ってよ、黒田」  戸惑っていると、貴船がそっと抱きついてきた。 「俺はお前の歌声が好きだ。今夜の音楽会だって大河原(おおがわら)先生が褒めていらしたじゃないか。ドイツ帰りでめっぽう辛口の評論家先生が、だよ。お前の才能は本場でもじゅうぶんに通用する」 「貴船。俺はお前を超えることができない。それが悔しい。嫉妬でおかしくなりそうだ」 「いいじゃないか。お前と俺はひとつだ。それでは嫌なのか」 「お前には、俺の焦りなどわからない」 「焦る必要がどこにある。俺はお前だ。お前のなかにいる」 「では、なぜ」  黒田は力の限りをこめて、ぎりぎりと貴船の華奢な身体を抱きしめた。 「ではなぜ、春から一度も会いにこなかった。俺はこんなに」  冷えた首筋からは何の匂いもしなかった。  やはり幽霊か、幻か。この世ならぬものだと思う。 「俺はこんなに、お前に会いたかったのに」  貴船は何も答えなかった。  黒田は彼の後ろ髪を強くつかんで乱暴に唇を重ねる。慌ただしく彼の学生服を剥ぎ、シャツのボタンを外した。  唇をつけた胸は冷え切っていて、その冷たさに思わず身震いする。万年床に彼の身体を押さえつけながら自分で洋袴(ズボン)の前を寛げた。それを見た貴船が驚いたように声を上げる。 「待て、黒田。俺はいいが、お前が痛いだろう――」 「かまうな。黙ってろ」  黒田は貴船の言葉をさえぎり、彼の脚を抱えて一気に腰を沈めた。ぬるりと奥に呑み込まれていく。まるで待っていたようだ、と黒田は思った。 「……っ、ああっ」  貴船が身体をのけぞらせて固く目をつむった。彼の抜き身が赤く張りつめて透きとおった露を滲ませている。それを目にしたとたん、身体の芯がかあっと火照った。黒田はわざと貴船を痛めつけるように責めたてた。   「お前に俺の気持ちがわかるか。お前に――、お前をずっと求めつづけた俺の気持ちが」 「黒田……待って……っ」 「俺はずっと待っていた。お前が遺した作品を俺の名前で発表して、絶賛されて、あれからずっとお前に会いたくて、会いたくて……ずっと待っていたんだぞ。それなのに」 「……う、あっ」  貴船が白い腹の上に精を零した。黒田も追うように貴船の体内で極まる。貴船の鼓動を感じたくて薄い胸に手のひらを置いてみた。  確かな強い鼓動が伝わってくる。  しかしそれが貴船の鼓動なのか、自分の鼓動なのか、結局のところわからなかった。
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