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三、夜明け
午前五時過ぎ、黒田はひとりで新橋駅から横浜行きの下り列車に乗り込んだ。
欧州への定期船は午前八時に横浜港を発つ。
元旦の車窓から夜明け前の空を眺めた。薄明りのなかで田畑が厚い雪に覆われているのがわかる。強い風が吹いているらしく、時折、列車がガタガタと横に揺れた。
港は多くの旅客や荷運びの馬車が行き交って活気に満ちていたが、海からの強風が吹きつけていて、黒田は腕車から降りてすぐに全身が凍えてしまった。歯の根が合わないほどの震えがくる。
――黒田。夕べの歌なんだがな、やっぱり終止音は属音のほうがいいな。
強い風に交じって貴船の声が聞こえる。姿は見えなかった。
黒田は歩きながら小声で返事をする。
「あとで書き直しておくよ」
「忘れるなよ。船に乗ったらすぐにやってくれ」
「わかってる」
「なんだよ。腹を立てているのか」
「ああ、そうだ」
「なぜ」
「言わなければわからないか。お前が……また勝手に姿を消したからだ」
「ここにいる」
「いない」
「いるよ」
フフっと耳元でくすぐるような笑い声がして、黒田は無駄だと知りつつ振り返る。
貴船の姿はなかった。すぐ後ろを歩いていた荷捌きの人夫がぶつかりそうになって、迷惑そうな顔で足早に追い越していく。
出国手続きを済ませて乗船した。
黒田に用意されていたのは二等船室だった。大人の男には少々狭い船室に入ると、上下二段ベッドの上段に人の気配がある。同室の乗客らしかった。仕切りのカーテンが引かれていて、ベッドの縁から洋袴に革靴の足が飛び出てぶらぶらと揺れている。
ベッドの上下などどうでもいいが、どことなく態度が気にくわない。黒田は大げさに咳ばらいをした。すると足がサッとカーテンの中に引っ込んだ。
欧州までひと月以上に及ぶ船旅である。厄介な人物でなければいいが、と思いながら身をかがめてベッドの下段に腰かけた。
鞄から五線紙を取り出す。夕べ、貴船が歌った唱歌を採譜しておいた。
楽譜の最後の音を、主音から属音に書きなおす。
これによってふしぎな余韻のある仕上がりになった。歌の終わりとともに音楽が消えてしまわず、どこまでも繰り返し続いていくような気がした。
黒田は感心して心のなかで呟く。
――こっちのほうが断然いいな、貴船。
「そうだろ。ああそれから黒田、そこの三小節目の一音目と二音目は、スラーでつなごう」
目の前にすうっと指が降りてきて楽譜を指すので、黒田は驚いて顔をあげた。
貴船と目が合った――ただし、上下逆さまの顔の貴船と。
彼はベッドの上段から逆さまに顔を出して笑っているのだった。
学生服でもなく部屋着でもなく、杉綾の三つ揃えに細いタイを締めている。
「……貴船」
「黒田」
貴船はするりとベッドの上段から降りてきて、黒田の傍らに腰を下ろした。
楽譜をのぞきこんで、もう一度指さす。
「ここ、スラーにして」
「……」
とっさに言葉が出ずに貴船の顔をぼうぜんと見ていたら、口づけされた。
船室の窓からまぶしい朝日が差し込む。
出港を告げる汽笛が長く響いた。
完
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