雨とお泊まり

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「俺ね、人物画描くの初めてなんだよ」 えっ。と顔ごと紀藤の方を見てしまって「動かない」と諭された。……この状況、何やら見覚えがある、アレだ、魔女さんが宅配するアレ。あのカラスと仲良しなポニテの姉さん俺めっちゃ好き。 「授業とかで自分の顔は描いたことあるけど、それだけ」 「俺、そんな貴重な体験貰っちゃったの」 「そういうこと」 記憶を辿るが、確かに言われてみれば紀藤が描く人間は見たことないかも。まずそんなにじっくり見たこともないのだが。 「つまり人物画バージン俺に捧げたってことでよろしい?」 「それなら遠野の絵画モデルバージンは俺が貰っちゃったってわけね」 「そういうことになっちゃうかぁ」 よく回る口だ、と肩を竦めた。 心地よい沈黙の中、たまに響く柔らかい声に返事をしながら時間に身を任せていると、鉛筆を置いた音と紙の擦れる音がして、空気が揺れる。 もういいよ、と言われて紀藤の方を見れば、優しい微笑み。素敵っす。 イーゼルに設置されていた画板から紙を取り上げると、紀藤は満足げに頷いた。 何枚か描いたようで、それらを全てまとめて机の上で角を合わせている。 「遠野は横顔が綺麗だね」 束になった絵を順番にめくり始めた紀藤は、一枚一枚見直しながら頷いてそう言った。 「え、ほんと? 照れる」 「うん、鼻筋が特に。あと唇辺りの凹凸もバランス良い」 「へえ」 「うん。膨らみの緩いカーブと締まるところがはっきりしてて、あとシンプルに形が綺麗」 「えぇ? 照れる」 「笑ったとき思ったけど遠野、歯並びも良いよな。歯も白いし」 「照れる……」 なんだこのベタ褒め大会。こんなに直球で顔面褒められたの初めてかもしれない。 照れる以外言えなくなったんだが。照れ過ぎてその内てれてれ坊主になりそう。 「日常を丁寧に重ねてる人の清潔感とやさしさがある」 「……」 「いいよね。そういうの」 微笑んだ彼が、そのまま目を細めた。 強気な笑顔ばかり見ていたので、その微笑の柔らかさに少したじろいた。 「にしても遠野の目描いてると色つけたくなるなぁ……その色、どうやったら出せるんだろ。今度一回試させて」 「エッ……」 「というか、一回と言わずこれからもモデルしてくれない?」 「アノ……」 「そんなに頻度高くするつもりないし、たまにで良いから。だめ?」 「いやもう俺でいいなら」 「よし決まり」 何やら紀藤はテンションが上がっているようで、目を爛々とさせている。紀藤の絵への熱量と先程のベタ褒めに押し負け、というか考えを巡らす暇もなくハワワとしながら反射で返事をした。遠野か、ちいかわか、である。 「ありがと遠野、また楽しみが増えた」 そう言って嬉しげな笑顔を見せた紀藤に俺はぱちりと瞬いて、笑って頷いた。
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