あっちとこっち

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「洋平、電話鳴ってんぞー」 「あーいいよ。ほっといて」  鍋の準備の最中だった。キッチンカウンターに置いていたマナーモードの携帯が、小きざみに震えている。もう何年も使っている古いガラケーは、着信の報せも大袈裟だ。最近通話状態もいまいちで、そろそろ変えるべきか。  携帯はカウンターと擦れ合い、ほんのすこしずつ移動している。その姿は身動きが取りずらいとうごめく虫のようで、ちょっとぞっとした。  すこししてぴたりと止む。動きが止まったそれは震動音もなくなり、死んだ生きものみたいにもの静かで、なんだか気味が悪い。  キッチンカウンターにくっつけたテーブルの土鍋は、出汁がすでに煮えていた。大澤と朔はすでに酒盛りのまっただなかで、持って来た惣菜のつまみを片手に、缶ビールを開けていた。もう何本目だろう、空いた缶がワークトップに並んでいる。  俺は野菜を切り終え、ざるをカウンターに置く。朔がそれを取り、土鍋のなかに突っこんだ。ふつ、と鍋の煮える音が止まる。  一応着信相手を確認した。三矢さんだった。彼もきょう、職場の若者連中で忘年会だと外に出ている。なぜ出先から、しかも同僚がいる場で連絡なぞしてきたのか。おそらく、かなり酔っているにちがいない。  忘れる年と書いて忘年。その一年にあった苦労を忘れること。らしい。苦労か否かはさておき、思い出だけに焦がれて生きているようなあのひとが、忘年の場に顔を出しているのがなんだかおかしかった。  席につく前に、缶ビールに口をつけた。軽いと思ったらなくなっていて、新しいものを冷蔵庫から出した。 「洋平オレにもー」 「働かせすぎだろ、てめえで取れ」 「ひゅうー! いじわるー!」  けらけら笑われ、結局缶ビールを取り出して大澤に渡す。陽気に酔えていいなあ、と単純に思った。  席につく。煮えた具を取り皿によそった。この日は日暮れあたりからふたりがうちに集まっていて、各々が忘年に勤しんでいた。今年一年どーでしたか、いやーまた不動産売っちゃったね、マウント最高か、マウントっつーか真実なんでまじで、ひゅうー雄二に養ってもらうわ俺、等々、俺がいてもいなくても、勝手にしゃべってくれるので助かっている。 「洋平、かけ直さねえの?」 「いや、まじでいい。めんどくせえ」 「つれねえー、三矢くん泣いちゃうじゃん」 「泣かねえし酔っ払い相手はここだけでじゅうぶんなんで」  かっこよ! と大澤がわりと大きな声を出した。どこの種族の言葉かもわからないし会話ができないようなので、ありがとねー、とてきとうに返して放置する。  しばらくは平穏に食べていると、カウンターに置きっぱなしにしていた携帯が、また振動する。息を吹き返したように、そいつはじわじわとうごめいた。震えるそれを見やると、訳もなく心臓が逸った。  あのひとはいつまで、過去を抱いて生きるんだろう。 「ほら、おまえがかけ直さねえからー」  手を伸ばした朔は俺の携帯を取り、ほい、とテーブルに置いた。  思い出は過去だから、いつまで経っても死なないんだ。腐ることなく、生き続ける。  椅子から立ち上がり、煙草とライターを左手に持ってベランダに向かった。窓を開けると寒気がいっせいに体にまとわりついて、身震いする。手のなかにある携帯は、まだしつこく振動していた。  このまま鳴って、鳴り続けて、止まって、またかかって来るのだろうか。それとも来ないだろうか。わからないから、煙草に火をつけてから着信に出る。風のせいかライターがなかなかつかなくて、ちょっと焦った。 「はい」 「てめえー、電話出ろや。浮気でもしてんのか」 「いやいや、発想こわすぎでしょ。あいつら来てんの知ってんだろ」  電話口の相手は、だって、とか、でも、とか口ごもっている。かなり呂律が回っていなくて、これは酩酊状態に近そうだ。 「帰ってからめんどくさそうだなあ」 「は? なにがめんどうなんだよ。やっぱ浮気だな、首洗って待ってろ」 「だからさ、妄想やべえよあんた」  不覚にも笑ってしまった。  三矢さんは、なあ、と言う。その声音は、低かった。俺は、うん、と答えた。 「浅野は今年一年、どうだった?」 「はあ? なに急に」 「いや、なんとなく。忘年会に来てるからさ、ちょっと考えたっつーか」  今ここで聞くことなの、と俺が呆れたように問いかけると彼は、まあーうん、とさらに口ぶりがまごつく。  ざあっと吹きすさぶ風が、木々をふくらませる。俺は煙草をくわえながら、揺れ動く葉が擦れ合って騒ぐのを聞いていた。冷えた携帯が、冷たい耳たぶに触れている。寒い。とにかく寒い。身震いする。 「別にふつうだよ、変わんねえって。つーか寒い。俺ベランダいんの。切っていい?」 「年明けさあ、初詣行かねえ?」 「あんた俺の話聞いてねえだろ。切るよ」 「思い出、つくりたくねえ?」  三矢さんはこともなげに言う。俺は煙草を持っていた右手を、だらりと下ろす。  そうだよな、このひと、思い出こねくって生きてるひとだもんな。  忘年、その一年にあった苦労を忘れること。 「つくってどうすんの。とにかく寒い。切るよ」  じゃあね。  切ってしまったガラケーは、もう振動は止まっていた。切る直前三矢さんの、あ、という声が聞こえたけれど聞こえない振りをした。寒いと言いながらも俺は、まだベランダに立ち尽くす。新しい煙草を取り出して火をつけ、すこしの間携帯を眺めた。虚空に流れる煙の筋が、強い風に舞ってすぐに消える。ふと風が、ぴたりと止む。煙が緩慢な線を描く。葉が、鳴かなくなる。  あのひとの感傷は、あのひとだけのものだった。俺が立ち入ることができないあっち側。  この古めかしい虫が完全に息絶えてうごめかなくなったら、俺はどうするんだろう。忘年のはるか向こう側の話。一年なんてものじゃなく。  開いた携帯の、着信履歴を見る。通話ボタンを押す。すぐに、あのひとの声がする。もしもし、と脆弱を隠そうとするのが顕著に表れる口調。 「さっきごめん。八つ当たりだった」 「めずらしいね、そういうの」  三矢さんの声は、とても柔いものだった。 「俺、けっこうあんたに八つ当たってるよ」 「おまえオレにはきっついもんね」  ふふ、と笑んだ声音も穏やかだ。 「初詣、めんどくせえけど行くわ。つーか俺ひと混み苦手なんだけど」 「知ってる。いやがらせだし」  三矢さんは俺をせせら笑う。 「今年もあんたの性悪なとこは直んなかったね」  ほっとけ、と今度は舌打ちをした。感情の起伏が激しいひとだな、と思う。  だって、と続けた声はまたちょっと舌っ足らずに聞こえ、突然口のなかが甘くなる。彼は忘年会で、なにを飲んだのだろうか。甘ったるいカクテルでも飲んだのか。それとも、しょっぱい味のアルコールだろうか。いずれにせよ、俺が知らない、横文字の。 「浅野は、きらいな場所は忘れないんだ。ずっと。だから来年も行く」  そう、と答えた。うん、と彼は返す。 「じゃあ切るよ。まじで寒い」 「おう」 「来年もよろしく。コウちゃん」 「はえーし。まだ三日あるし」  そうだね。俺は言う。切るよ、ともう一度言って、今度はほんとうに電源ボタンを押した。かち、とおもちゃのように軽く鳴るので、来年は携帯を変えようなどと考えた。うごめく虫が、完全に途絶える前に。  煙草はもう、根本で自然と消えている。あまり吸っていなかったことがもったいなかった。  リビングに戻ると、世界が一変したみたいに暖かい。あー、と出た声はふやけていて、ふたりがこちらを向く。 「ラブコール終わった? あんな寒い場所でよくやるわ」  朔はすでに、日本酒に口をつけはじめていた。俺もあとでもらおう。 「おまえまじで三矢くん好きだなー」  苦笑しながら言う大澤は、具を取り皿によそっている。あっちとこっちの差異を、とき折りめまぐるしく思う。席につき、俺も鍋から具をよそった。もう、とろとろに煮えていた。 「好きだよ」  え? ふたりの声がそろう。 「思い出と現実の温度が一緒じゃないと不安になるひとなんだよ、かわいいとこあんだろ」  けー! と舌を鳴らされ、俺は笑う。かんぱーい、とお猪口と缶を差し出され、俺も缶ビールを合わせた。  来年も、どうぞよろしく。 了
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