2人が本棚に入れています
本棚に追加
湿っぽいセメントの匂いが鼻腔を擽る。
雨がそれを叩く音。
遠くからは車輪が水を切る音。
漂ってくる金属を含んだ雨の匂い。
そして、私は真っ暗闇の中にいる。
私の周りを徘徊する様に、カツカツと響く足音。男性の革靴の音に違いない。
その気配を目の前に感じると、ヒュルリ、と目隠しを取られる。
夕焼け色の光りを感じながらそっと目蓋を開けると、目の前の男は目を細めて微笑んだ。その笑い顔は、今まで見た事がないぐらい残酷な不気味さを醸し出す。
「ねぇ、一緒に死なない?」
手足を縛られていて、口元に貼ってある布を剥がせない。体をもごもご動かしながら遠ざかろうとも、自由を奪われ、手首と足首に結束バンドが食い込むだけだ。
首を振って周りを見渡す。
一面灰色のセメントに囲まれている。廃墟ビルの中だろうか。壊れかけた窓ガラス、剥き出しの針金、崩れ落ちそうな廃壁。
打ちつける音を楽しむかの様に降り注ぐ雨。
「ねぇ、聞いてる?僕は君の事が好きなんだよ。あんな男と付き合う前からずっと……」
口をもごもごしながら、振り子みたいに体を左右に揺らす。
た、助けて!
助けに来て!省吾!
男が至近距離に近づき、ベリッと粘着テープを剥がす。私はすぐさま、口を開いて助けを呼ぶ。
「聞こえないよ。こんなひと気もない場所で、こんな雨の中だから」
「省吾は助けに来る。必ず来てくれる。高遠くん、どうしてこんな事するの?」
彼が右手に持っているサバイバルナイフの刃先が、顎下の皮膚に触れてひんやりする。
「来るわけないじゃん!来れるわけないよ!ここで僕と君は永遠の愛を誓って、一緒に天国へ旅立つんだ。素敵だと思わないか?」
いつもの同僚の高遠くんとは別人に見える。
いつもは頼りないぐらいヘラヘラしていて、でも時々、同僚の省吾を助けてくれる優しい人だと思っていたのに。
男の眼の奥底には、夜の闇を感じる。
背筋が凍りつくほどの熱い青い視線。
……私は殺されるの?
「省吾……助けて」
絞り出した声は、降りしきる雨音に吸い込まれそうな程、小さかった。
3日ほど前。
私と省吾はくだらない事で喧嘩をして、突発的にお互い思ってもいない言葉を口にした。
「さよなら!」
死ぬほど後悔した。
好きなのに素直になれない。
どうして人間というものは、こんなにも不恰好で不器用なのだろうと思った。
次の日の夜、省吾からLINEが来た。
「今から会いに行く。話したい事がある」
ドキドキしながら窓辺にもたれ、彼を待っていた。
もしかして、別れたいとか?
そんな不安の波が打ち寄せてきたが、その夜に彼は来なかった。
次の日、会社にも顔を出さなかった省吾。
電話も繋がらないし、LINEも既読にならない。妙な胸騒ぎを抱えながら、私は会社帰りに彼の家に向かっていた。
何かの事件に巻き込まれたのだろうか。
そんな時、突然、口元に布を押し付けられた感覚がすると、意識が朦朧としてその場に倒れ込んだ。
長い夢の中……
気がつくとこの場所にいて、今のこの現状に至るというわけだ。
「だから、あいつは来ないって!」
顎下にあった刃先が、スーッと首元に移動する。バンドが食い込んだ手首と足首からは血が滲み出し、もう感覚すら無くなっている。
「まさか、高遠くん……」
私の言葉を遮る様に、ナイフが一直線に空を切って振り上がる。
雨音は激しさを増していくだけ。
こ、殺されるっ!!
〝菜摘!〟
え?省吾?
目の前の男は何かの力によって、横に吹っ飛ばされてしまった。一瞬の出来事。
そして、私の前には久しぶりの笑顔。
ずっと会いたかった人。
でも、人の気配は感じない。
身体はシャボン玉みたいに透き通って見える。
「し、省吾?」
その身体に手を伸ばしても感触はなく、雲みたいに通り抜けて掴めない。
〝ごめん、菜摘、遅くなって。お前を助けに来たよ〟
透ける様な笑顔の向こうには、冷たい雨が映り込む。
最初のコメントを投稿しよう!