ワスレナグサ

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湿っぽいセメントの匂いが鼻腔を擽る。 雨がそれを叩く音。 遠くからは車輪が水を切る音。 漂ってくる金属を含んだ雨の匂い。 そして、私は真っ暗闇の中にいる。 私の周りを徘徊する様に、カツカツと響く足音。男性の革靴の音に違いない。 その気配を目の前に感じると、ヒュルリ、と目隠しを取られる。 夕焼け色の光りを感じながらそっと目蓋を開けると、目の前の男は目を細めて微笑んだ。その笑い顔は、今まで見た事がないぐらい残酷な不気味さを醸し出す。 「ねぇ、一緒に死なない?」 手足を縛られていて、口元に貼ってある布を剥がせない。体をもごもご動かしながら遠ざかろうとも、自由を奪われ、手首と足首に結束バンドが食い込むだけだ。 首を振って周りを見渡す。 一面灰色のセメントに囲まれている。廃墟ビルの中だろうか。壊れかけた窓ガラス、剥き出しの針金、崩れ落ちそうな廃壁。 打ちつける音を楽しむかの様に降り注ぐ雨。 「ねぇ、聞いてる?僕は君の事が好きなんだよ。あんな男と付き合う前からずっと……」 口をもごもごしながら、振り子みたいに体を左右に揺らす。 た、助けて! 助けに来て!省吾! 男が至近距離に近づき、ベリッと粘着テープを剥がす。私はすぐさま、口を開いて助けを呼ぶ。 「聞こえないよ。こんなひと気もない場所で、こんな雨の中だから」 「省吾は助けに来る。必ず来てくれる。高遠くん、どうしてこんな事するの?」 彼が右手に持っているサバイバルナイフの刃先が、顎下の皮膚に触れてひんやりする。 「来るわけないじゃん!来れるわけないよ!ここで僕と君は永遠の愛を誓って、一緒に天国へ旅立つんだ。素敵だと思わないか?」 いつもの同僚の高遠くんとは別人に見える。 いつもは頼りないぐらいヘラヘラしていて、でも時々、同僚の省吾を助けてくれる優しい人だと思っていたのに。 男の眼の奥底には、夜の闇を感じる。 背筋が凍りつくほどの熱い青い視線。   ……私は殺されるの? 「省吾……助けて」 絞り出した声は、降りしきる雨音に吸い込まれそうな程、小さかった。 3日ほど前。 私と省吾はくだらない事で喧嘩をして、突発的にお互い思ってもいない言葉を口にした。 「さよなら!」 死ぬほど後悔した。 好きなのに素直になれない。 どうして人間というものは、こんなにも不恰好で不器用なのだろうと思った。 次の日の夜、省吾からLINEが来た。 「今から会いに行く。話したい事がある」 ドキドキしながら窓辺にもたれ、彼を待っていた。 もしかして、別れたいとか? そんな不安の波が打ち寄せてきたが、その夜に彼は来なかった。 次の日、会社にも顔を出さなかった省吾。 電話も繋がらないし、LINEも既読にならない。妙な胸騒ぎを抱えながら、私は会社帰りに彼の家に向かっていた。 何かの事件に巻き込まれたのだろうか。 そんな時、突然、口元に布を押し付けられた感覚がすると、意識が朦朧としてその場に倒れ込んだ。 長い夢の中…… 気がつくとこの場所にいて、今のこの現状に至るというわけだ。 「だから、あいつは来ないって!」 顎下にあった刃先が、スーッと首元に移動する。バンドが食い込んだ手首と足首からは血が滲み出し、もう感覚すら無くなっている。 「まさか、高遠くん……」 私の言葉を遮る様に、ナイフが一直線に空を切って振り上がる。 雨音は激しさを増していくだけ。 こ、殺されるっ!! 〝菜摘!〟 え?省吾? 目の前の男は何かの力によって、横に吹っ飛ばされてしまった。一瞬の出来事。 そして、私の前には久しぶりの笑顔。 ずっと会いたかった人。 でも、人の気配は感じない。 身体はシャボン玉みたいに透き通って見える。 「し、省吾?」 その身体に手を伸ばしても感触はなく、雲みたいに通り抜けて掴めない。 〝ごめん、菜摘、遅くなって。お前を助けに来たよ〟 透ける様な笑顔の向こうには、冷たい雨が映り込む。
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