五、

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五、

翌朝、目を覚ませば寅松の姿はない。 毎度の事ながら、俺が眠るまで傍に居てくれる男らしさに心ときめく。 寅松の残り香を纏う自身を抱き締めて 本日も生き地獄へと足を運んだ。 「さあ桃や。今日から柘榴が留守だ。お前にも柘榴の客を回すから気を引き締めなさい」 「承知仕りました」 柘榴…真っ赤な果実。 少しでも傍で感じていたくて 桐箪笥の一番下で眠っていた艶やかな深紅の着物に袖を通した。 姿見の前でくるりと一周。 …ふむ、普段は淡い色が多いが たまには濃い色味の着物で気分を変えるのも悪くない。 …だがしかし、この姿を誰より見せたいのは寅松なのであって その寅松は……既に出てしまっているのであって。 「はぁ…」 「桃!早くしなさい!」 「もっ、申し訳ございません!」 思わず吐き出したため息は、部屋の端まで響く怒鳴り声にかき消された。 柘榴色の着物に合うよう、いつもより大ぶりな簪。 白い顔に良く映える紅を引き、どうせすぐに解かれる薄い帯を締めて。 生き苦しくて、息苦しい。 重たい着衣の締め付けで、十分に空気を吸う事も出来ず 肩も揺れぬ静かな呼吸が精いっぱいだ。 太陽が天高く昇っても 西に傾き、江戸の町を橙に染め上げても 月が昇り、沈み、また朝日が顔を出し、海の淵へ帰っても。 ただただ、殿方の色欲を満たすまで狂い鳴き、 終わりの鐘を待つのみ。 寅松は、今何をしているだろう。 俺に何も教えてくれずどこかへ出掛けるなんて 都に来る前だって、そんな事は一度も無かったのに。 寅松…。 桃の毎日は寂しいよ。 センと呼んでくれる君の声が、こんなにも恋しい。 「桃!へばってんじゃないよ。仕事だ」 「…はい。ただいまっ!」 つい数刻前まで好き勝手揺さぶられた身体は鉛と化し、力が入らないのが正直なところだが 地獄に甘えは通用しない。 俺は今一度、乱れた髪に手櫛を通し、 涙に滲んだ化粧を直した。 これがきっと最後の客。 これを終えればきっと横になれる。 寅松の居ない檻の中で何度もそう言い聞かせ、 その場限りの精神状態を保った。 気を抜けば食べた物を残らず戻しそうになる悪心は どれだけ多くの客と身体を重ねても、少しも治まる事など無くて。 お世辞にも裕福とは言えない俺達が、家族の手を借りず生きるためには 身を汚すしか方法はない。 だからここに居るのに。 …寅松が居なければ、自分が何の為にこのような苦痛を強いられているのかがわからなくなる。 あぁ、早く……帰ってきて。
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