序章 (一)雨の日

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序章 (一)雨の日

 影は見ていた。  その日は土砂降りの雨で、枝葉は濡羽(ぬれば)色にうつむいていた。ぬかるんだ地面が、靴底へねっとりとすがりつくようで重い。いささか不快だ。  雨、雨、雨。濡れた衣服が冷たい。濡れた髪が重い。なにもかもが陰鬱(いんうつ)と泣いているようで気にくわない。ひとつとして楽しくない。  そんなふうに、いらだたしく森の獣道を睨んでいたときだ。 ――りん、りん、りん。  わずらわしい雨音にそぐわない愛らしい音が、どこからか響いてきた。かろやかな鈴の音だ。  無垢な響きをたずさえて、向こうを歩いている者がいる。 ――りん、りん、りん。  金色の稲穂のような髪はたっぷりと濡れて冷たく雨水をしたたらせている。彼は、ふと足を止めた。なにかを見あげたらしい。  白色だ。  彼は、自らの背丈よりもずっと大きい、真っ白な獣を見上げていた。  あれは魔種だ。魔物だ。  理性と自我はなく、生存本能のみに従うだけの、バケモノ。人間とは比にならないほどの強い生命力と奇異なちからをもっている。ヤツらは人間を簡単に殺す。そういう生きモノだ。  魔獣は赤い歯茎をむき出しにして唸っている。血走った(まなこ)で青年を睨み、白濁としたよだれをどろりとこぼした。  影は無関心にそれらを見つめていた。 ――きっとあの青年は無為に死んでしまうのだろう。  彼が目の前にしているその魔獣は上位種だ。生半可(なまはんか)な技術と実力で狩れるようなものではない。だから、無為に死ぬ。どのみち、助けるつもりなどなかった。弱い命を助けてなにが楽しい。なにが自分の利益になる。ばかばかしい。 ――ひとつ、興味をひかれたとすれば。  猫の面に隠れた、よめない表情、だろうか。  運悪く出会ってしまった上位種の魔獣を前に、恐怖に怯えるようなそぶりは欠片も見られなかった。だから、その青年がどんなふうに死ぬのか、ほんの少しだけ興味をひかれた。  彼は諸手にたずさえた二刀一対の片刃曲刀を静かにかまえた。刀身には、シトリンの色をした魔鉱石がうめこまれている。それは、魔導武具(マナシリーズ)と呼ばれる、魔狩のみが所持を許される特別なものだ。 りん、と猫の面の横にぶら下げられた鈴が鳴く。 「魔導武具(マナシリーズ)、起動」  青年の声の、なんと無機質で冷淡なことか。愛らしい鈴の音は、雨をうちはらうほど激しい魔獣の咆哮によってうち消される。枝葉がたくわえた水滴がいっせいに落ち、おびただしく音を立てては跳ねあがった。 「通り名は〈迅雷〉」  影は見ていた。 「魔狩開始(マナハント・スタート)」  冷酷な声とともに、光がひらめいた。遅れて、轟音。  影は笑った。  笑ってしまった。  なんと激しく、乱暴で、痛々しいのだろうと。  一帯を埋めるような光量に目がくらむ。轟音のせいで、わずらわしい雨の音さえイカレてわからなくなってしまった。  ようやく、視界がもどったころ。  魔獣の腹には大きな穴があいていた。白い毛並みは焦げ、泥に汚れて動かない。  雷光の残滓(ざんし)をはらって、青年は二刀一対の片刃曲刀を背中の鞘におさめた。  りん、と鈴の音が鳴る。  おもむろに、彼は面をとめていた赤い結い紐をほどいた。  濡れた横髪が存外愛らしい顔立ちの頬に重く落ちこんだ。たおやかな(まなじり)に包まれた蒼穹の青。形のいい薄い唇に、いっさいの表情はない。しいて言うなら、どこか寂しげに見えた、だろうか。  彼は一度まぶたを閉じる。  降りしきる雨が、彼の頬についた泥水と混ざってしたたった。 ――りん。  影は見ていた。  ああ、そうだ。あの青年(アイツ)は、きっと狂っている。  でなければどうして、あれほどに美しく笑えるだろう。  命を奪っていながら、これほどまでに普通に、あたりまえに、美しく。  そうとわからないほどの、作り笑い。  おそろしく綺麗で、なんと(いびつ)なことか。  ああ、気持ちが悪い。 
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