私のあだ名は顔面凶器(改稿版)

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「銀太郎」 すぐに薫兄の声。 私はゆっくりかがめていた腰を伸ばした。 手探りで正面を向く。 「薫兄?」 返事がない。 私は手を伸ばした。 すぐにアクリル板に触れる。 「薫兄、そこにいるの?」 返事がない。 その代わり向こう側で鼻をすする音がした。 「薫兄?」 「ああ、エイミー」 涙声の薫兄の声がした。 「エイミー、僕のエイミー、愛してるよ」 私は知っていた。 今の私がどんな風になっているのか。 私はすっかり元の姿に戻ってしまったのだ。 薫兄が溺愛したあの頃の私に。 拘置所を出ると粉っぽい風が吹きつけた。 陽が傾きかけているのか少し肌寒い。 「さ、行こうか恵美」 「うん……」 ポケットに入れた手を出そうとすると、お守りがこぼれ落ちた。 コロコロと転がる小さな音がした。 「何か落ちたよ」 銀太郎が屈む気配がした。 「いいの」 私は銀太郎を制した。 「拾わなくていいの。もういらないの」 私は銀太郎の方に手を伸ばす。 もう私に形はいらない。 銀太郎の指先が私に触れた。 視力を失ってからずっと私を導いてくれる銀太郎の、その手を私は取った。 形がなくても分かる。 感じられる。 そして、信じられる。 「寒い?」 「うん、少し」 銀太郎が私の腕を擦る。 私より銀太郎の方がずっと寒いだろうに。 それを言うと、「こうやると僕も温まるからいいよ」と銀太郎は言った。 ああ、きっと銀太郎は今あんな顔をしているのだろう。 最後に私が見た穏やかな微笑。 銀太郎の温かい体温が伝わってくる。 どこからか風に乗って甘い金木犀の香りがしてきた。 あれは銀太郎だったんだね。 私のお母さんのお腹、私のお父さんの胸の中、私をいつも優しく抱きしめてくれていたのは。 「銀太郎」 私は銀太郎の手を握り締めた。 黒いきれいなガラスとフジツボのようなボコボコ。 二人の兄が合わさって、私に見せてくれた光の万華鏡。 暗闇の恋人が見せてくれた、それは“愛” 私は視力を失ったが、その代わりに別の目を手に入れた。 その目で見る世界は美しかった。 その目は現在だけではなく過去をも美しく変えた。 醜く惨めだと思っていた私の人生は愛で溢れたものだった。 穏やかで慈愛に満ちた愛情を私に注いでくれた銀太郎。 激しく燃えるような性愛を私にぶつけてきた薫兄。 私は確かに愛されていた。 薫兄と銀太郎、二人の兄に。 そしてそれは今も同じ。 こんなにも愛されている私は世界一幸せな女の子だ。 今、私がどんなに醜かろうが私は幸せだ。 私は醜くなんてないのだ。 私はみんなと同じように大事で、みんなと同じように誇り高く、みんなと同じように美しいのだから。 こうして私はずっと暗闇に生きることになった。 光輝く暗闇に。 了 最後までお読みいただきありがとうございました。 八月 美咲
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