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29・赤とんぼ
ツバキ君のお母さんのことはよく知らない。
噂ではツバキ君のお母さんは彼が小さいころに亡くなったらしいけれど、それだって本当かどうか定かじゃない。
ツバキ君も、お父さんの話はするけれどお母さんの話をしたことはほとんどない。だから僕もなるべくお母さんの話は訊かないようにしている。
だけど一つだけ、ツバキ君がお母さんについて教えてくれたことがある。
「母さんは僕のことが憎くてたまらなかったんだ」
その苦しそうな顔が、ずっと忘れられない。
そんなツバキ君が“母”の話をしてくれたのは、泣きたくなるほど綺麗な夕焼けを見ていたときのことだった。
「小さいころ、誰かの背中で赤とんぼを見たのを覚えてる」
教室に差し込む赤に目を細めて、ツバキ君が唐突に言った。
それは放課後、誰も居ない教室に残って他愛もない話をしているときだった。その日の夕焼けは一段と色濃くて、でも不思議と禍々しを感じさせない綺麗な色だった。
赤く色づいたツバキ君の横顔はまるで知らない誰かのようで、僕はちょっとだけ不安になったのを覚えている。
「母さんは僕が産まれてすぐに死んだから彼女のはずがない。顔もよくわからなかったし、たぶんあれは人じゃなかったんだろう。でも、あの瞬間は、あの瞬間だけは、彼女は僕の“母”だった」
覚えているのは背中のあたたかさだけだ、とツバキ君は言う。その声音はあまりに静かで、まるでなにかをこらえているようだった。
不安に耐えかねて彼の名を呼べば、ツバキ君はちょっとだけこっちを見て薄く微笑む。
それから小さく息を吸い込んで、呟くように歌を口ずさんだ。
夕焼小焼の 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か
その歌声は酷く悲しげで、“母”の存在を恋しがっているようにも見えてしまう。
果たしてツバキ君が焦がれているのはその“母”なのだろうか。それとも、本当のお母さんなのだろうか。そんなこと、訊くことなんかできなくて。
僕はなんだか無性に悲しくなってしまって、固く目をつむって彼の小さな歌声に耳を傾けるのだった。
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