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「おお、西本。今日も精が出るな」
「おはようございます。伊藤先生」
大会一か月前。
俺はいつものように一人でマットとバー、バーを設置するスタンドをグラウンド隅の倉庫から引っ張り出し、朝練に励んでいた。陸上部の顧問である伊藤先生は、そんな俺のために毎朝定時より早く出勤して、監督を買って出てくれている。
伊藤先生が見守る中、120センチにセットしたバーに対して背を向けて立ち、両手を大きく前後に振り、「いっせーのせっ」のリズムで跳び上がりバーをクリアする。理想の空中フォームを作るための基礎練習、「その場跳び」(と、俺は呼んでいる)だ。
練習のはじめにこのその場跳びをやるルーティーンも、今年で三年目だ。「慣れたもんだな」伊藤先生が感嘆の声を上げた。
「ありがとうございます」
「……なぁ、西本。ものは相談なんだが」
「はい、なんでしょう」
「助走を一から作り直してみないか」
「え」
俺は思わず声を漏らした。
伊藤先生が続ける。
「西本は、こう言っちゃなんだが、身長があまり高くない。高校で背が伸びる可能性もあるけれど、現状成長は止まっている。そうだろう? そして背が低い選手が高身長の選手と渡り合うには、フォームを含めた技術面で勝負するしかない。それはわかるな?」
伊藤先生の問いかけに、無言で首を縦に振る。
「お前の空中動作はほぼ完璧で、現状手を加えるところがない。だが、助走の方はまだ改善点があるように思える。どうせフォームを変えるなら早いに越したことはないだろう。高校でも高跳びを続けるなら尚更、な」
確かに先生の言うことも一理ある。
だが。
走高跳のフォームは、「助走」から「空中動作」までが一体となってそれを構成している。助走を一から作り直すということは、空中動作へ向かう「入射角度」や「スピード」が大きく変わってしまうことになり、これまで通りの空中動作で跳ぶことは不可能に近い。実質的に「助走を作り直す」=「空中動作の調整」という図式になる。
俺はこれまで空中動作を固めるためにかかった膨大な時間を思い出す。今から一か月後の大会までにフォームを一度解体し作り直すだけの技術は、おそらく今の俺には無い。
つまりフォーム改造を行うことは、未来の自分への投資と引き換えに、三年夏の大会を捨てることを意味する。
「このままのフォームで勝負させてください」
「だが西本」
「いいんです。高跳びは中学までって決めているんで」
進学校を受験する予定でいる俺は、高校では勉強に専念するため部活はやらないと決めていた。
それともう一つ。伊藤先生はおそらくあえて触れなかったが、俺には高跳び選手に不可欠な身体のバネが圧倒的に足りなかった。このまま陸上競技を続けても、残念ながらトップ層の選手には未来永劫叶わないだろう。
だから俺は、高跳びは中学までと自分に見切りをつけた。
一か月後の大会は俺の陸上人生の集大成。今のフォームでも、運が良ければ三位入賞は狙える。だったらこのままのフォームで勝負がしたい。「だが西本」と繰り返す伊藤先生に俺はもう一度、「いいんです」と伝えた。
「……お前が決めたのなら、俺が強制することじゃないしな。わかった。そのままのフォームでいこう」
「ありがとうございます」
「もったいないと思うんだけどなぁ」という伊藤先生の呟きが耳に届いたが、俺は聞こえないふりをして再び練習に没頭していった。
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