眠れない夜をかぞえて

19/35
前へ
/201ページ
次へ
海から引き揚げられたとき、哲也は既に心臓が止まり、息をしていなかった。人工呼吸と心臓マッサージが施され、救急車に乗せられた。 運ばれた病院で救命医にそう告げられた。 私の記憶は、そこからない。ただ、あるのは、亡くなった哲也にキスをしたことだ。あれだけ温かく私の唇を包んでくれた哲也の唇は、冷たくて少し固かった。キスをしなければよかった。私に残された感触の記憶が、冷たく固いまま唇に残ってしまっている。 「哲也、二度と来ることは無いと思っていたけど、来たよ……区切りをつけるために……」 踏み入れた海は、やっぱりあの時と変わらず穏やかに波を打っていた。目を閉じると波の音が聞こえる。 『美緒』 「哲也?」 空耳じゃない、はっきりと哲也の声が私の名前を呼んだ。でも周りには哲也どころか人がいない。私は、もう一度目をつぶった。 『美緒!』 哲也だ、間違いない。目を開けたら哲也は消えてしまうかもしれない。だからもう目は開けない。閉じたままでいると、哲也が現れた。 「哲也、海に来たよ」 哲也はなにも答えない。だけど私が見たいと願い、ずっと叶わなかったあの笑顔が、大好きだったあのはじける笑顔が見える。哲也が見せていた悲しい顔は、私の時間を止めさせてしまっているのは、自分のせいだと思っていたんじゃないかと今、やっとわかった。いつも私のことを思ってくれていた哲也だから、きっとそう思っていたに違いない。 でも哲也が悪いんじゃない。私が自分から心の扉を閉めて、誰の言葉も耳を貸さずにいたことが、哲也は悲しかったのだ。 一ノ瀬さんと出会い、自分の知らないうちに少しずつ、一ノ瀬さんに惹かれて行った。今思えば、そのころから夢に変化が現れていたのに、そんなことにも気が付かなかった。 「哲也~!! もう大丈夫よ!! 心配かけてごめんね!!」 叫んだあと、持っていた花束を海に投げ込む。 「哲也……」 誰が見ていても構わない。最後に大きな声で哲也の名前を呼んだ。胸がしめつけられるほど苦しくて、息が出来ないほど大声で泣いた。 振り向いた哲也の最後の笑顔を、私は一生忘れない。 「ありがとう……あなたと……哲也に出会えたそれだけで、それだけで幸せだったよ。誰よりもあなたが好き……」 この言葉を贈ると、花束が波にのまれて海の中へ消えていった。
/201ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2316人が本棚に入れています
本棚に追加