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その日、あたしの気分は最悪だった。
親友と二人での水族館。二人で三千四百円。高校生の値段で入れるのは最後だからって、結の方から誘ってくれた。
「みてみて、朱里、ペンギンペンギン」
「見りゃわかるっての」
誘われた時から、嫌な予感がしていた。昔水族館に誘ったときには、動物園の方がいいなんて言っていたのに。
「お尻振って羽広げて、ぼーっとしちゃって、可愛い~!」
「何考えてんだろ、こいつら」
「北極でこんなのんびりしてたらさ。すぐに食べられたりしないのかな、シロクマとかに」
「北極にペンギンはいないよ」
「……え、何で? 北極って寒いんじゃないの?」
「何でって……嫌だったんじゃないの、ゆらゆらした氷の上にいるのが。北極って氷の塊なんでしょ」
「私は楽しいと思うけどな、氷。スケートリンクみたいで」
はしゃぐ結の顔は、どこかギラギラとしていた。ペンギンを通して、何か別のものを見ているみたいだ。
普段、木漏れ日のように感じる優しい笑顔は、真夏にじりじりと照り付けるようなそれになっていた。そんな目で見られたら、北極の氷も溶け出してしまうだろう。
目の前の水槽はペンギンが泳ぐところをよく見せようとしているからか、水底とこちら側の床が同じくらいの高さになっている。だから、岩の上にいるペンギンには見下される格好になる。
ペンギンをよく見ようと背伸びする結の頭を、私は横目に見た。根本までしっかり染められた茶髪。すぼらな彼女にしては珍しい。いつ見たって根本は黒かったから、結はあえて毛先しか染めないんじゃないか、なんて冗談を言ったこともあった。
「ねえ、知ってる? ペンギンってさ、つがいになると一生添い遂げるんだって。子育ても一緒にしてさ。ちょっと、人間っぽいよね」
あたしは岩の上で羽を広げて、遠くを眺めるペンギンの目を見た。そんな義理堅い顔には見えない。絶対、何も考えてない。
「あそこで二羽一緒にいるの、夫婦かな」
結は岩場が少し下がったところで、二羽くっついているペンギンを指さした。他のぼーっとしたペンギンたちとは違い、二羽ともこっちを見つめている。
「見分けつかないから、わかんない。メス同士かもしれないし、オス同士かも」
「確かに! ペンギンの性別って、どう見分けるんだろ」
「さあね」
あたしはこちらを睨み付けてくるペンギンを見返す。
あんたたちから見て、あたしたちはどう見えてんの。
ペンギンに人間の雌雄を見分ける目は無いと思うから、案外、あたしと結もつがいだと思われているのかもしれない。
「あんたって、ペンギン好きだったっけ?」
「あ……うん」
結ははっきりしない返事をした。
その返事を聞いて、胸が締め付けられるような気分になる。
結はペンギンなんて好きじゃなかった。あたしは覚えている。高二の秋、修学旅行で行った水族館。ペンギンに目もくれず、館内でどんな昼食が食べられるかばかり考えていた。かと思えば、泳いでいる魚を見ては「刺身にしたら美味しそう」なんて話して、その辺にいるハトの方に興味を取られていた。
あたしはペンギンの水槽から下がって、ベンチに腰掛ける。
結はしばらくペンギンを観察していた。ふと隣にあたしがいないのに気付いたのか、きょろきょろと辺りを見回す。あたしは膝に両肘をつき、少しだけ満足してその様子を眺める。このままあたしがいなくなったら、結は探してくれるだろうか。
結はようやくあたしと目が合って、こちらに駆けてくる。彼女がすぐ隣に腰を下ろすと、ふわりとジャスミンの香りがした。
「朱里は何が好きなの?」
「は?」
「魚とかイルカとか、アシカとかさ。見に行こうよ」
あたしは少し考えて、ぼそりと言った。
「……アンコウ。チョウチンアンコウ」
「チョウチンアンコウ? あの、頭が光るやつ?」
「そう」
「へー。……どこで見れるの、チョウチンアンコウ」
結はマップを広げた。入り口からの順路を指先でなぞって、チョウチンアンコウの文字を探している。弾む指の動きから、水族館を楽しんでいるのがありありと伝わってきた。
あたしは衝動的に彼女の細い指を握って、制止する。
「ここにはいないよ」
「え、そうなの?」
「ここだけじゃなくて、たぶん、ほとんどの水族館にはいないんじゃないの。……実際に見たことないし」
結はあたしに握られた指をぴくりと動かし、困惑した表情を浮かべた。
その顔を見てぱっと手を離した。彼女を困らせてしまった自分が嫌になる。
「どこが好きなの? チョウチンアンコウ」
結はそれでも、優しく聞いてくる。
「チョウチンアンコウってさ、深海魚じゃん」
「そうなの?」
「そう。……で、深海にいるとさ、餌もそうだけど、同じ仲間と出会う機会も少ないわけ。広いし暗いし。だからチョウチンアンコウのオスはさ、メスのフェロモンを頼りに近付いて、噛みつくんだよ」
「え、痛そう」
「で、噛みついたら一生、離さない。それだけじゃなくて、くっついたメスにどんどん吸収されてくんだって。目も口も、内臓も、跡形もなくなって、体の一部になる」
魅力的なメスにつられたオスは、そのままいなくなって、おしまい。体の一部になるっていうのは、食事をしているようなもんだ。出会って消化して、それだけ。当のメスは、出会ったことすらきれいさっぱり忘れているに違いないし、そうであってほしかった。
結は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「なんか、グロい」
「でも、いいじゃん、一緒なんだから。ペンギンもそうなんでしょ?」
「そう言われればそうだけど、そうじゃないっていうか。……朱里って変な生き物好きなんだね」
「人間だって、生き物の原理を考えたら、よっぽど変じゃない?」
「何で? アンコウより?」
「さてね」
あたしは発言の真意を、決して結には語らない。高校卒業という節目で、紡いできた関係が崩れるのが怖いから。
このもやもやとした気持ちは、生き物としてはどうかしているのかもしれない。それこそ、本能でメスに向かって泳ぐチョウチンアンコウの方が、よっぽど直線的で、合理的だ。
ふぅ、と溜め息をついて、ペンギンのように遠くを眺めながら、あたしは聞く。
「どうして水族館なんて誘ったの、結」
「え、嫌だった?」
「ううん、あたしは水族館、好きだから。でも、あんたはそうじゃなかった」
少しの沈黙。そして、その後に紡がれる言葉が何か、あたしには多分わかっている。
不思議と、胸は痛まなかった。……いつか、そんな日が来ると思っていたから。
「あのね……実は、そうだった。けど、最近ちょっと好きになったんだ。ある人の影響で」
結はそう言うと、ベンチの上でくるりとこちらへ向き直る。
「朱里には、一番に話そうと思ってたんだ」
大丈夫。心の準備は、できている。
「……私ね、彼氏ができたの!」
朗らかな笑みを横目に、あたしはぼーっとペンギンを眺めていた。
寄り添っていたペンギンに、新しいのが一羽近寄ってきて、元いた一羽が飛び込んだ。残ったペアがオスなのかメスなのか、見分ける術はない。
小さな水しぶきを見届けると、あたしは言った。
「そう。よかったね、おめでとう」
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