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 顧問の急な出張が入って、今日の部活動が無くなった。あいにく好都合だった。ただ教室に集められて、ミーティングと称した雑談を行うぐらいなら、端から活動なんてない方がいいように思えたからだ。  僕は職員室に入ってすぐ右手側にある鍵棚から、〔部室棟 301〕と書かれた鍵を手にとって、用意されている借用紙に〔部室棟/301/文芸部/二年/立花蒼依〕と書く。  簡単な手続きを終えた僕は、鍵をブレザーのポケットへ仕舞い、部室棟を目指して歩いた。その途中、棟同士を繋ぐ渡り廊下で静華とすれ違った。静華の隣を、当たり前のように若林さんが歩いている。何やら楽しげな会話をしていたようで、僕はなるべく目が合わないよう、窓の外を見たくもないのに視線を追いやった。  お互い、気づかないわけが無いのに、一声も交わさずに廊下を渡りきる。無視をしようと意識してしまっていることすら恥ずかしくて、曲がり角を越えた後、僕は部室までたいした距離なんてありはしないのに、逃げるように走って向かった。  部室に到着し、鍵を開ける。パソコンやプリンター、扇風機に知らないキャラクターのぬいぐるみ。高く積まれたコピー用紙と、何年も前に発行した部誌。それらが猥雑にひしめき合う狭い部屋に、僕は安心を感じた。  デスクトップパソコンの前に置かれた回転椅子に座り、背もたれにぐっと重心をかける。パソコンを起動する気にはなれず、真っ黒な画面には、靄がかかった僕の顔が映っている。一体どんな表情をしているのだろうか。細部までは、ぼやけていて分からない。  何も考えまいと思うほど、すれ違った時の気まずさばかりが心に居座る。隣にいた若林さんは、文化祭の時から何一つ変化していなかった。明るい印象、それだけだ。  彩明学園演劇部。これまで、そんな肩書きを見ても、侮蔑的な感情や、劣等感は一切覚えなかった。それなのに、彩明学園演劇部所属伊野静華、と多少の追加があるだけで、僕はその漢字の羅列から一切目が離せなくなる。 「殺す気かよ」  久しぶりの独り言が溢れた。これは、果たして意味がある方の独り言なのだろうか。  彩明学園演劇部と、彩明学園文芸部はよく似ている。部長だけがやる気に満ちている点が、言い逃れできないほどに類似している。僕は演劇を知らない。だから、文化祭の時だって、具体的な感想はたとえ機会があったとしても言えなかった。目まぐるしく切り替わる場面、音響や照明で昂ぶらせる焦燥、登場人物に憑依する演者。それらに目を奪われていたら、観劇は終了していた。  僕は、演劇という場所で静華は生きられないと思っている。静華の強みは、繊細な文章だ。突拍子も無いアイデアや、巧みな構成力ではない。静華が作り上げた登場人物は、どんなに有名な役者に任せても、表現しきれるはずがないんだ。あの小説を脚本にしたところで、静華の作品は死ぬ。もっと言えば、そんな環境で書かせ続ければ、静華の才能は死んでしまう。 「やっぱ、殺す気なんだろうな」  本日二度目の独り言。僕は僕の考えを正当化するために、声に出しているだけなのかもしれない。 「佳作二席が、そんなに恥ずかしいのか」  今日は止まらない日なのかも知れない。閑静な部室で、僕は続けて独り言ちる。 「まあ、天才からしたら恥ずかしいのか」  僕は、静華が見ていた最優秀と名がつく景色を未だ知らない。準優秀の景色も知らない。けれど、佳作二席の景色はよく知っている。知っているからこそ、無性に腹が立つ。 「返り咲きなよ、出来るでしょ」  この一年間で高まった静華への期待値が、僕の言うことを聞いてはくれない。 「なんで、諦めるんだよ」  初めて読んだ静華の小説、『マゼンタカラーの反則性』を思い出す。 「君は伊野静華なのに」  挫折をくれた『夜を越えない』を思い出す。 「何、考えてるんだ」  最近読んだ『嘘の素肌』だって、こちとら負けの味を噛み締めたっていうのに。  物思いに耽っていると、がちゃり、部室のドアノブが回る音がして、僕は咄嗟に姿勢を正した。振り返り、扉にへそを向ける。 「立花か。何やってんだ。今日は部活無いってグループラインで言っただろ」  現われたのは、部長。僕は胸をなで下ろした。  部室に入って早々、部長は壁にもたれ掛っていたパイプ椅子を開き、そこに腰を下ろして分かりやすく項垂れていた。声を掛けてくれ、と言わんばかりの動作に、却って僕は、適切な第一声を見失った。 「お前、何しに部室に来たんだよ」  言われてみると、明確な理由は無かった。 「気づいたら、ここに」 「あっそ。まあ、伊野の件もあるからな」  部長が髪をぐしゃぐしゃと掻き毟って、「あーあ」と大袈裟な声を漏らした。 「どうかしましたか」  どうかしていても、どうでもいいのに、どうかしましたか、と言わなくちゃいけない。 「聞いてくれるか」 「時間ならあるので」 「あのな」 「はい」 「俺、小説家になりてえんだ」  部長はようやく本題を切り出してくれたようだ。ただ、雑談の範疇に留まらない内容が予測され、気分は少し沈む。 「いつから小説家を目指していたんですか?」  なるべく優しい声色を意識して、僕は訊く。 「小学校三年の時だな。児童文庫読み漁ってた時期があって、その時から、いつか書く側に回ってみたいって思うようになったんだ。小学校を卒業するとき、作文で夢について書かされた。周りがスポーツ選手とか警察とか、変な奴は小学生なのにサラリーマンとか言ってる時、俺は小説家になりたいって書いたんだ。馬鹿にする奴はいなかったけど、俺が一番変なんじゃねえかなって思った。その時は、誰とも被ってない自分の夢が、なんかすげえ嬉しかったんだ。それだけで、特別な気がしてたからな」  夢という単語が、やけに重たい意味を孕んでいる気がした。 「まあ、結局ちゃんと書き出したのは高校入学して、文芸部入ってからだったんだけどよ。最初は楽しかった。俺の代、入部したの俺だけだったからさ。先輩たちは俺のことめちゃくちゃ可愛がってくれて、作品も褒めてくれて、リレー小説とかやったりしてさ。部活が楽しくて仕方なかった。でも、職員会議で廃部の話題が持ち上がった話を聞かされたあたりで、伊野が部活に入ってきて、あそこからだ。つまんなくなったのは。伊野の作品が俺ら文芸部の目を強制的に覚まさせるぐらいのクオリティで、劣等感に溺れてたら、気づいたら部長になってて、そんでお前まで編入してきて、どんどん実力至上主義になって、俺は置いていかれたんだ」  部長が話しているとき、なるべくその口元だけを注視していた。目が合ったら、呑まれてしまいそうな闇が、部長からは漂っている。 「なあ立花」  いきなり名前を呼ばれて、ぴくりと身体が震えた。 「お前、俺の作品読んだか? 今回の高文連のやつ」  部長の作品を脳内で探索する。散らかった記憶の中で、瞬間的に見つけ出すことが出来ない。読んだのはつい最近なのに。僕は、主人公の名前も思い出せないまま「はい、顧問から借りて、読ませて貰いました」と言った。 「どうだった」  部長の声はいつもより低い。そのせいか、僕の喉は固く締め上げられる。 「俺はもう卒業だし、伊野が部活を辞めた以上、立花に部長を引き継ぐことになる。まあ、うちみたいな部活の部長なんて、名ばかりでたいした仕事も無いからな。部長会議が面倒くさいだけだ。だから、聞いておきたいんだ。お前から見て、俺の三年間を注いだ最後の作品はどうだったのかを」  この人は、きっと作品を褒めて貰いたいんだ。その為に、言葉の中に努力の痕が滲んだ布石を幾つも打っている。苦手だと思った。結局、最後は自己評価に逃げる癖が部長にはあって、それがこの人を、行きたい場所へ連れて行かない根本的な原因だと分かった。しかし、それが当たり前なのかもしれない。平常なのかもしれない。静華という圧倒的な才能の傍にいたせいで、僕も麻痺しきっていた。あんなに美しく飛ばれたら、自分の飛び方が間違っていると錯覚して、飛ぶことが出来なくなっても仕方ない。  一握りの、限られた才能を持つ少数派は、少数だからこそ成立している。僕や部長のような多数派がいてこそ、静華は引き立ち、強く輝く。 「部長」 「なんだ」 「正直に言った方が良いですか。それとも、感謝の気持ちを添えた感想が良いですか」  一瞬躊躇っていた様子を見せたが、部長は「正直に頼む」と言った。 「……僕でも書けそうでした」  事細かに作品の善し悪しを述べられるほど、僕の頭の中には部長の作品が記憶されていなかった。だからこそ、一言で、どんなに棘のある言い方でも、浮かんだ言葉を伝えるべきだと思った。  部長が口を閉じて数分経った。これほど耐えられない沈黙は初めての経験だった。僕が「正直に言いました。でも、かなり失礼な自覚もあります。ムカついたら、殴って下さい」と呟くと、パイプ椅子から勢いよく尻を剥がした部長が、僕のネクタイを掴み、思いっ切り引っ張った。至近距離で、部長は僕を睨む。パイプ椅子は、銀色の音を立てながら倒れていく。 「お前、ふざけんなよ」  逆上されても、それが僕の本音だ。後輩として、無礼極まりない点で殴られても仕方は無かったが、素直な感想を求めたのは部長本人なのに、と心の中では思ってしまう。 「俺が三年間、どんな思いで書いたと思ってんだよ! 俺には、才能がねえんだよ! 才能は気まぐれで人を選ぶんだ! 俺は生まれた時に才能に選ばれなかった! 選ばれない俺はお前らみたいに入選も出来ねえから! お前が高文連会長賞で悔しがっても! 伊野が佳作二席で部活辞めても! 全部が羨ましいんだよ! 最初から無理なんだ! 努力したって無理なんだ! 才能が無きゃ意味ねえから!」  この人の言う努力とは、何を差しているのだろう。  網膜の裏側で、〔二十三いいね〕の投稿が映る。 「俺の作品はどうすりゃ評価されたんだ? なあ、教えてくれよ。なあ、高文連会長賞、教えてくれって! 高文連会長賞が直々に!」 「高文連会長賞」を繰り返されるのが不愉快で、僕も部長に視線を合わせ、ネクタイを掴む手を強めに掴み返した。 「僕に訊かないで下さい。才能についてなら、静華に訊けばいい。彼と一緒にされるのは困ります。部長は何も分かってない。天才と、天才では無い人間の距離感すら掴めないあなただから、手にしたいものを掴めなかったんじゃないんですか」  僕の話を遮るように、部長は一発、僕の頬を殴り飛ばした。  殴られた衝撃で、僕は床に倒れ込んだ。口内に血液の味が広がって、じんじんと頬が痛み出す。 「俺は昨日、伊野に同じこと言ったよ。そしたらあいつ、『入選が全てじゃない。夏の高文連に提出した部長の作品は読みましたけど、ちゃんと、想いが込められていましたよ』って言ったんだ。あいつも俺の作品を褒めはしなかったけど、伊野はお前と違ってそう言ってくれた。対してお前は何だ? 『僕でも書ける』って。じゃあ書いてみろよ。お前みたいな奴がこんなドブみたいな作品書けるのか? おい」  静華は優しいんだ。僕は部長の嘆きを聞いても、もうそれしか思えなかった。  確かに、僕は部長の作品を書けない。自分の名前を横に刻むのであれば、あのクオリティは己が許さない。僕は勝手なことを言ったのかもしれない。 「すみませんでした」  部長は、何も言わない。 「失礼なことばかり。すみません」  倒れ込んだ僕を見下した部長が、「もういい」と吐き捨てる。  部室には、行き場のない嫌悪が蔓延している。  僕が立ち上がる前に、部長は部室を出て行った。去り際、部長は「お前は住む世界が違うんだよ。花が咲かねえ種もあることを忘れないでくれ」とだけ言い残した。ドアが閉まりきって、完全に部長の影を感じなくなったところで、「それは静華に言ってくれ」と、僕も零した。  立ち上がって、尻を叩いて埃を落とし、僕は再び回転椅子に腰を下ろす。口内に指を当てると、指先が真っ赤に血濡れた。深く切ったのかもしれない。当分はこの痛みが続くと思うと、何故か泣きそうになった。  心が覚束なくなった僕は、徐にスマートフォンを手に取り、菜々子とのラインを開いた。 〔ねえ、今日会いに行っても良い?〕  ほぼ、無意識に文字を打って、気づいたら送信している。  すぐに既読マークがついて、菜々子から返信がくる。 〔いいよ。待ってるね〕 〔ありがとう〕と表記されたキャラクターのスタンプを送って、僕は雑にスマートフォンを机へ放った。目の前には、電源の落ちたパソコンが僕の顔を映している。ぼやけているが、今度ははっきりと分かる。僕の嫌いな、僕の顔だ。  まるで、僕に見つめられているようで、すぐに気分が悪くなった。この部室には、部長の陰鬱が未だ色濃く漂い続けている。一刻も早くこの場から離れたくなって、僕は逃げるように部室を飛び出した。
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