プロローグ

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プロローグ

   町田のライブハウスには、今夜も夢追い人たちから溢れ出る青春の熱気が蔓延している。  一瞬でも気を抜いてしまえば、観客の視線に留まらず、音響や照明スタッフ、他バンドからの期待、仲間の緊張感に僕は呑まれてしまうだろう。独特の雰囲気が、この小さな『ハコ』と呼ばれるライブ会場には潜んでいた。  僕は落ち着いた風を装いながらギターを抱え、ステージ上のセンターでマイクと向き合っている。ピックを握る指先には自ずと力が込められ、先程まで弾いていた楽曲の残響が手に染み付いていた。  僕が「それでは、最後の曲になります。聴いて下さい。切望汽笛(せつぼうきてき)と言った時から、この場にいる全員の好奇の視線がステージ上の僕らに集中している。交感神経が優位に立ち、全身の細胞が泡のようにぱちぱちと小さな破裂を繰り返す感覚があった。これは畏れではない。焦りでもない。静かなる奮迅だ。額に滴る汗を拭う暇なんてない。僕は、第一声で会場中の意識を取り込めるよう、自前のマイクに唇を優しく触れて、  汽笛が鳴る頃に また君を迎えにいかせてよ  濁り 立ち上る憤怒の蒸気がいつか  僕らの残酷を洗い流す雨となるのだろう  嗚呼 耳に残る歌を響かせて  切望汽笛よ 声を探して 僕は 今日も  と、曲冒頭のアカペラ部分を歌い上げた。一呼吸置き、(まこと)がハイハットを叩き鳴らす音に合わせ、一斉にメンバーの演奏が始まる。  ピック越しに伝わる弦の振動。今夜はギターの調子もいい。仲間たちの温度も僕と大差ない。あとは、心を込めて歌いきるだけだ。  舞台上からは観客の顔がよく見える。バーカウンターの近くで、僕に釘付けの美しい瞳を見つける。綻ぶ心を再度引き締め、何一つとして思い残すことのないよう、最後の曲を歌いきった。     *  地上へ続く階段を駆け上がってライブハウスを出る。二月下旬、外気は未だ、仄かに熱を帯びた僕らの身体を芯から冷やそうと奮闘している。凍てつく寒さの中、満足げな表情で今日のライブを振り返るバンドメンバー。彼らの口から溢れる息の白さが、覚め切らぬ高揚を物語っていた。 「おい、アオ。これからヤマさん家でSHAYOL(シャヨウ)の打ち上げやるんだけど、お前も来るべ?」  ギターケースを背負う僕に声をかけたのは、同い年の誠だった。右手には、本番前に駅近くのセブンイレブンで買ったエナジードリンクが握られている。ちゃぷちゃぷと缶を揺らす誠の前髪は相変わらず長くて、目線が全く通わない。  その隣で「今日は酒、用意してっから!」と、一つ歳上のリードギター、ヤマさんが僕に親指を立てて、不健全さを含んだ笑みを向けている。 「すみません、ヤマさん。今日はちょっと、このあとに予定がありまして」 「お~い。フロントマン無しで打ち上げしろってかよぉ。というか、ライブ終わりに俺らよりも大事な予定なんかあんのけ」  エナジードリンクを飲み干した誠が、指圧で缶の腹を押し潰しながら言った。  僕が返答に困っていると、ヤマさんの背後で会話を聞いていた、こちらも一つ歳上のベーシスト、京香(きょうか)さんが「きっと彼女さんだよ。今日もライブ来てたみたいだしね。察してあげなよ、男子勢」と助け船を出してくれた。自分の口から「恋人と会うので、打ち上げには行きません」なんて、この一体感に水を差すようなことを言い出す勇気は無かった。京香さんの発言によって、僕のプライベートは救助される。 「ちっ。彼女かよ。いいなぁ、女。俺だってバンドマンなんだぜ? なんでアオには彼女が居て、俺には居ねえんだろうな。やっぱ歌わないとモテない感じか、バンド女子以外からはさぁ。まあ俺、バンド女子はナシ派だけど」  誠が夜空を仰ぎながら、溜息交じりでそんなことを零した。あいにくの曇り空で、星は欠片も見当たらない。 「そんな風に落ち込まないの。私が今日、打ち上げに参加してあげるんだから、贅沢言わない。私じゃ物足りないってわけ?」  男勝りな言い草の京香さんは、腕を誠の肩へと伸ばし、そのままがっつりと組んで自分の身体に引き寄せた。黒髪のショートボブがふんわりと揺れて、片耳だけのリングピアスが煌めく。 「だって京香さんもバンド女子じゃないっすか。それに、好きな人いるんでしょ。そもそも俺には脈無しってわけですもんね」 「へえ。誠くんって、意外と好きな人とか気にするタイプなんだ」 「いや、そういうわけじゃねえっすけど、京香さんに手え出したら、他の男子部員の目が怖いんですよ。『俺たちの京パイを独り占めしようとすんな!』ってね」 「京パイ」とは、京香さんがベースを弾く際に、ボディ部分にその大きな胸が乗ってしまうことに、どこかの男子部員が敬意を称してつけた綽名のことである。 「それ、普通にセクハラだからね」京香さんは呆れ笑いを浮かべながら、誠の頬を柔く叩いた。 「うっす! 自覚あるんで、大丈夫です!」  背筋を伸ばした誠が指先をピンと伸ばし、警察官さながらの敬礼を京香さんへ贈る。それを見た京香さんは、先程より強めの力で誠を小突いていた。「最低だなぁ」苦笑する京香さんは、どこか楽しそうにも見える。 「言っとくけど、私は誠くんみたいなタイプが一番異性としてはムリだからね」 「そんなぁ」  いてて、と心臓に手を当てる誠。わざとその場でよろけ、道化に徹する様はいつもと変わらない。「しっかりしろ!」ヤマさんに身体を支えられた誠が、情けない声で返事をする。「へぇい」 「そんな落ち込まなくても大丈夫だぜ! ベースやってる女にロクな奴いねえから、別に京香の趣味に耳貸さなくても平気だ!」  おどけたようにヤマさんが吐き捨てると、僕ら三人は声をあげて笑った。「一番ロクでもないヤマに言われちゃ私もおしまいだね」顔を見合わせ破顔するヤマさんと京香さん。そんな様子を眺めていると、僕はこのバンドメンバーが好きだと実感し、胸の奥が急に熱くなった。 「じゃあ」感傷的になる前に、僕は別れの挨拶を切り出す。「また明後日の部活で今日のことは沢山話しましょう。お先失礼します」  軽く頭を下げ、くるりと半回転しバンドメンバーに背を向け歩き出す。誠が「あんまりエロいことし過ぎんなよ!」と僕へ余計なことを言い飛ばしてくる。振り返って「するわけないだろ」と目を細めた僕に、三人は手を振り続けてくれた。  ビル角を曲がり、彼らの視線から僕の姿が完全に外れた場所で、時刻を確認する。もう、ライブが終了して三十分以上が経ってしまっていた。僕は頭からにょきっと伸びたギターケースを大袈裟に揺らしながら、菜々子(ななこ)の待つ町田駅前まで全力で走った。     *  JR横浜線町田駅の改札を出て右へ進むと、銀色の不格好なモニュメントが大々的に設置されている。その足下で、菜々子はイヤホンを耳に差しながら音楽を聴き、僕の到着を待っていた。五メートルほど離れた場所から呼びかけても、菜々子は振り向かなかった。ならば。思い立った僕は、音楽に集中する菜々子の前に身体をひょこっと飛び出し、「お待たせ!」と笑ってみせた。 「わあ! びっくりした」  目をまん丸に広げた菜々子が、耳からワイヤレスイヤホンを外して、充電用ケースに仕舞った。 「呼んでも振り返らないから驚かせてみた」 「イヤホンしてたからね。爆音で音楽聴いてたから仕方ない」 「何を聴いていた感じですか?」 「勿論、SHAYOLの【切望汽笛】ですよ?」  菜々子がダッフルコートのポケットからスマートフォンを取り出し、ロック画面を僕に見せつけた。そこには、いつでも僕らの歌が聴けるようにと、CDからパソコンへ取り込み、データ移行させたであろうSHAYOLの楽曲が表示されている。たった一曲、菜々子は、この曲をリピートし続けて僕を待っていたのだろうか。 「菜々子は本当に【切望汽笛】好きだよね」 「私だけじゃないよ、きっと。今日のライブだって、アオくんのバンドがトリで、しかも最後の曲が【切望汽笛】で、皆も嬉しかったはずだよ。私なんて、アオくんに見えないようにこっそり泣いたしね」  涙したことを僕にここで伝えてしまっては「こっそり」の意味がなくなるのでは? そんな野暮はことを考えはしたけれど、その素直さがなんとも菜々子らしい。単純に僕は、僕が一番大切に想う人が、僕の歌で涙を流してくれている事実が誇らしかった。いつかバンドで飯を食っていけるようになりたいと思う気持ちも、こういう部分から由来するのかもしれない。 「ありがとうね。今日もわざわざ来てくれて」 「当たり前だよ。これからもどんどんライブやってね。どんな場所でも日時でも、規模が大きかろうと小さかろうと絶対全部行くから。あ、武道館でライブやる時が来たら、私は最前列を優待してね」  菜々子の溌剌とした声に白い吐息が伴っておらず、僕は長らく外で待たせてしまったことを後悔した。芯まで冷え切った菜々子の身体を、人目もはばからずここで抱き締めたくなる。でも、きっと菜々子はそういうのを恥ずかしがるだろうから、僕は溢れんばかりの想いを凝縮した左手で、悴んだ彼女の右手を包む。 「お腹空いたでしょ。何か食べたいものある?」  僕の問いに、菜々子は眉間を狭めて考える。 「んー、今日は寒かったし、鍋とか食べたいかも」 「じゃあ、帰りに橋本で鍋でも食べて帰ろっか。まだ八時過ぎだし、お店も開いてるはず」 「やった。私、キムチ鍋がいい!」 「わかった。キムチ鍋がありそうな店を調べるね」  僕らは手を繋いだまま、横浜線の改札口までゆっくりと歩いた。  電車に乗ってからも、菜々子はずっと「アオくんの書く歌詞はやっぱり天才だ」とか「演奏中の表情がやけに色っぽい」とか「何より歌が上手すぎる」とか、耳にたこができるほど、今夜のライブを褒め続けてくれた。  車窓の外では、まばらな灯りを纏った夜の街が流れていく。こうやって生きていけたら、僕らはどれだけ幸福なのだろうかと、しばらくはライブ後の余韻に二人で浸り続けた。  それから一週間が経った頃。  菜々子は交通事故に遭い、中途失聴者になった。  代わり映えしない最寄り駅からの帰り道。国道十六号線沿いの三叉路に、信号のない横断歩道がある。その日の菜々子は、アルバイトに遅刻しないようにと、急ぎ足で歩いていたらしい。左右の確認を疎かにした状態で横断歩道へと飛び出した菜々子に、軽トラックが衝突した。命に別状は無かったものの、衝突の際に耳を強く打ち付けてしまい、聴力の全てを失った。  僕は事故発生の翌日に、菜々子の母親から連絡を貰って、すぐに駅前の協同病院へと駆けつけた。  入り口のネームプレートで【304 (いずみ)菜々子】を確認し、勢いよくドアをスライドした。「菜々子!」咄嗟に声が張って、僕は彼女の名を叫ぶように呼んでいた。  窓際に顔を出す、まだ花開かぬしおらしい桜の枝先を眺める菜々子は、僕の大きな第一声で振り返りはしなかった。その事実を、上手く受け入れることができなかった。菜々子の元へ歩み寄って、優しく肩を叩き、涙目で菜々子を見つめる。  病床に腰をかける菜々子は、右脚を骨折していた為、片脚だけが宙に吊り上げられている状態だった。目元は紫色に腫れて、顔中に掠り傷を負ったらしく、顔面には部分的に包帯やサージカルテープが巻かれていた。  肩を叩かれた菜々子はびくりと身体を震わせて、僕の方へ首を回した。僕を見るやいなや、すぐに泣きじゃくった菜々子は、その不自由な身体で僕に抱きつき、自分は難聴ではなく失聴で、補聴器などを駆使しても意味がないほど、もう何も聴こえなくなってしまったことを僕へ伝えた。知識が無い分、失聴への理解も浅い。恋人が中途失聴した時の最適解など、僕は持ち合わせていない。何か、声をかけてあげたい。そう思ってしまう時点で、僕の底が知れるようで辛かった。  何もできぬまま、ただ手を握り、菜々子の艶やかな髪を撫でる。沈黙が皮膚に染み込み始めたあたりで、菜々子は僕の頬に指を重ね、 「まだ、私はアオくんの歌が聴きたいのに」  なんて言うのだった。
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