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 筆記体で〔NANAKO〕と書かれた札が張り付いた扉。見慣れた光景の前に、今、伊野静華という違和感がぽつんと立ち尽くしている。僕が「もう菜々子に着いたってメッセージ送っていい?」と訊ねても、「まだ心の準備ができない」と彼は駄々をこねていた。かれこれ、扉の前で立ち往生にあってもう五分が過ぎようとしている。  静華の停学が明けて一週間が経った今日。僕は以前から依頼されていた「菜々子ちゃんに会ってみたい」という彼の要望を叶えるべく、菜々子へアポイントを取り、この場をセッティングした。しかし、直前になって静華は怖じ気づく。彼らしくない動揺が、僕には少し面白かった。 「静華が会いたいって言うから連れてきたんだけど」 「会いたいけど、会いたくないんだよ。わかんない?」 「全くわからない」 「あー。会って後悔したらすぐ帰るから、その時は俺のケアをお願いね」 「うーん、たぶんしない」 「そんなぁ」  静華は右手にホワイトボードを、左手には水性ペンを握っていた。菜々子とのコミュニケーション方法を予め伝えていたおかげで、道具はご丁寧に駅前の百円ショップで購入しておいてくれたらしい。  僕は指先を伸ばし、静華の背中を優しく押した。「ほら、早く行きなよ」 「早くって。ドアの向こうは戦場みたいなもんなんだよ」 「人の恋人を敵兵みたいに言わないでよ」 「恋敵だから、あながち間違ってないでしょ」 「わかったから。菜々子も待ちくたびれてるよ」 「よぉし」鼻から息を吸い、大きな深呼吸を一つ挟む。「伊野静華、参ります。蒼依、菜々子ちゃんに到着のメッセージを」 「はいはい」  覚悟を決めた静華の背中を貫通し、菜々子へ〔部屋の前着いたから、開けるね~〕とラインを送る。秒速で既読が付き、〔ななこ待機中〕と書かれた猫のスタンプが一件返ってくる。「入っていいよ」と僕が伝えると、静華はゆっくりとドアノブに手を伸ばし、そのまま扉を押し開けた。 〔初めまして。彩明学園二年、伊野静華(いのしずか)です。〕  家へ上がる前に、玄関先で予めホワイトボードに書き置いた、ふりがな付きの自己紹介文を菜々子へ見せる静華。僕と同様に、その文を声に出して読み上げている。 「あ、初めまして。泉菜々子です」  菜々子は部屋の中心に立って、かなり深くお辞儀をしている。白を基調とした整理の行き届いた部屋は、いつもは漂わないアロマの香りがした。初対面の人と会う為に、今日はしっかりと服装も可愛く着飾っている。僕は静華の背後からひょっこりと顔を出し、菜々子に手を振った。顔を上げた菜々子が、僕を発見して頬を綻ばせたのがわかった。いつもより厚化粧なのは気のせいであって欲しかったが、久しぶりに見るフルメイクの菜々子は格段に綺麗だった。 「アオくんからお話は伺っています。想像を遙かに上回る美形だ……」  やはり初見では静華の容姿に目が奪われるのだろう。僕は静華の顔の横に、〔彼はあまり顔を褒められるのが好きじゃありません→〕と書いたホワイトボードを並べる。それを見た菜々子が慌てて頭を下げた。  静華は「お邪魔します」と小声で呟き、俯いた菜々子の肩に触れた。 〔菜々子ちゃんも、お綺麗ですね。〕  静華の達筆に褒められた菜々子が、一瞬、僕も知らない乙女の視線を見せたことに気づく。 「アオくん……。彼は神様ですか……。私、心が揺れてしまいそう……」  静華に見惚れる菜々子。頬に空気を詰めた僕は、腕をぴんと伸ばしホワイトボードを見せつける。〔それ、浮気の予兆なんだけど。傷付きました〕 「いや、アオくん。これは違うんだ。これは静華さんがイケメン過ぎた故の不可抗力で!」 〔サヨナラ〕 「待ってぇ」  菜々子は「待ってくだせぇ」と言いながら僕の方へ駆け寄ってくる。と、見せかけて、そのまま「私、お茶入れてくるから二人ともくつろいでて! 狭いけど!」と言い、階段を駆け降りてリビングへと向かった。静華が振り返って、僕に「菜々子ちゃん、聞いてた通り面白い子だね。あと意外と顔は綺麗系だった。可愛い系だと思ってた」と言った。  僕と静華は、ご丁寧に敷かれた星形のクッションマットの上に腰を下ろす。ペンの裏に着いているクリーナーで文字を消す静華に、僕は声をかける。 「静華って、女性を褒めたりするんだね」 「俺のことなんだと思ってんの。好きにはならないだけで、綺麗なものは綺麗って言うよ」 「女性苦手だと勝手に思い込んでたのかも」 「姉も幼馴染もいるから、免疫ついてるよ」  静華の姉と聞いて、頭の中で勝手に美人像が浮かび上がる。 「しかし、蒼依はずっとこれ使って菜々子ちゃんと話してるんでしょ。すごいなぁ」  握っていたホワイトボードを静華が持ち上げる。彼の長方形の白さは未だ健在で、僕の方はかなり薄汚れていた。 「うん。本当は手話を覚えようかと思ったけど、菜々子にも同じ量覚えてもらわなきゃいけないからやめた。あと、そこに時間が割ききれなくて。あ、でも挨拶とかは覚えたんだ。これで、ありがとう、を意味するんだ」  左肘を横に張って左手の甲を上向きにし、そこへ右手を垂直に立てる。 「へえ。なんか格好良いね」と言いながら、静華もその動作を真似る。 「そう、上手」 「ほかには? 挨拶的なやつ教えてよ」  瞳を輝かせる静華へ、僕は更にいくつか、初歩的な挨拶の手話をやってみせた。僕が教え、静華が真似る。そんなことを繰り返していると、菜々子がおぼんに温かい珈琲と紅茶、それに緑茶を乗せて部屋へと戻ってきた。 「静華さんは、どれがいいですか? 指さしてください」  菜々子の問いかけに、静華は黙って緑茶に人差し指をさす。 「はい、緑茶どうぞ。熱いので気を付けてくださいね」  お茶をテーブルの前に差し出された静華は、黙って、先ほど教えた「ありがとう」を意味する手話を菜々子へ披露した。菜々子はにこっと笑う。その光景が、何か形容できない幸福を表しているように思えた。 「アオくんは珈琲でいい? お砂糖いる? いるなら取ってくるけど」  僕は首を横に振る。本当は甘い珈琲が飲みたかったけれど、もう一度菜々子をリビングに向かわせるのは面倒で、意思とは反対に首を動かした。  皆の前に飲み物が配られ、僕らは三角形を描くように、地べたに一定の距離を保って座った。それからは、菜々子の口からはバンドを組んでいた頃の僕の話、静華の口からは僕が文芸部に入部してからの話がいくつも語られた。この三人で円卓を囲めば、僕の話ばかりになることは想像がついていたはずなのに、いざその様子を目の当たりにすると、やけに恥ずかしさばかりが際立ってしまう。 「アオくんの歌、めっちゃ格好良いんですよ。是非、静華さんも機会があれば聴かせてもらってください」  最後に僕の歌声を聴いたのは半年以上も前なのに、菜々子は新鮮な表情で静華へと力説している。 〔それはいいね。今度お願いするよ。〕 「確実に惚れます。男でも惚れます」  菜々子が静華へ放った「惚れる」というワードにぴくりと反応したのは僕だけで、静華は至って普通に〔惚れたらすごいね。〕と返していた。静華の同性愛を、僕は菜々子へ話してはいない。何も知らなければ、静華が僕を好きな事実も、この日常の中に完全に溶け込んでしまうのが分かった。  僕の話題が峠を越えたあたりで、静華が急に話の路線を切り替え始めた。 〔菜々子ちゃんに質問良いですか?〕 「どうぞどうぞ。私みたいな凡人の回答でよろしければ。何でも答えますので」  静華が何やらにやつきながら、筆を進めているのが分かる。 〔菜々子ちゃんは、蒼依のどこが好きですか?〕  ホワイトボードの文字を読んだ菜々子の耳が、一気に赤く染まっていく。 「おい、静華。そういう話は」 「まあまあ。俺は蒼依の友人として、彼女さんからの惚気話を聞きたいだけ」 「恥ずかしいですねぇ。たくさんありますよ。でも、強いて言うなら、やっぱり優しいところですね。私のこと、本当に大切にしてくれてるんだなって。耳が聴こえなくても、ずっとそばにいてくれるから。あ、あと顔も好きです。静華さんには劣るけど、なかなか男前じゃないですか? アオくんも」 〔わかる。蒼依はかなりの男前だよね。〕 「私は静華さんと同志になれそうです。熱い結託を」  菜々子が差し出した手を静華はぎゅっと握り、二人は固い握手を交わす。それが嫌に不気味に映るのは、僕の瞳だけなのだろう。 〔じゃあ、一番の思い出は?〕 「まだ続けるのか」 「まあまあ」  僕を宥める静華をよそに、菜々子は二人の写真が貼られたコルクボードを見つめ、答えを熟考している。 「うーん。それも迷いますね。でもやっぱり、アオくんが告白してくれた時ですかね。中学二年生の時、放課後、アオくんの近所にある総合公園で、綺麗な菫たちに囲まれながら私は告白されたんです。すっごい嬉しかったなぁ。アオくんシャイだから、告白はかなりシンプルだったんだけど、逆にそれが素敵でした」 〔その総合公園なら俺も知ってる。家から自転車で二十分くらいだからね。〕 「いいですよね、あそこ。菫の咲く庭が本当に魅力的で、忘れられません」 〔じゃあ、今度菫が咲いたら三人で観に行こうよ。俺が邪魔にならなければ。〕  菜々子は返答に躊躇う素振りを見せず、「ぜひ」と言った。菜々子に静華の同性愛を話していないように、静華にも菜々子が外へ出られなくなったことを話してはいない。お互いが重要な部分を知らないまま会話を成立させている様が、仕方なくもあり、煩わしくもあった。二人とも相手に気を遣わせないように自身の内情は隠し通す顔をしている。その様子が、他人と他人、を表しているようで、ずっと感じていた安寧が机上の空論でしかないことを思い知らされる。 〔じゃあ、最後です。二人は最近、いつキスをしましたか?〕 「おい! 何訊いてんだ!」  驚いた僕は静華の頭を強めに小突いた。「だって知りたかったんだもぉん」と猫なで声で呟く静華に、過去最大級の疑心の目を向ける。 〔なーこ、答えなくていいよ。こいつは頭がおか〕と僕が書いている途中で、菜々子が照れながら「一昨日です」とカミングアウトしてしまった。 〔アツアツだね。うらやましい。〕  答えを聞いて満足したのか、底なしの笑みでこちらを見た静華を、僕はぐっと睨みつける。 「そんな怒んないでよ。いいじゃん、若いし」 「静華が訊くから嫌なんだよ」 「へえ。へんなの」 「へんなのはお前な」  僕の感情とは裏腹に、静華はけらけらと笑っている。呆れた僕は「ちょっとお茶汲み直してくる」と言って、部屋に静華と菜々子を残し、リビングへと一時避難をした。     *  やかんが耳障りな音を立てて、沸騰のサインを僕へ告げる。百度まで上昇したお湯は、茶葉の入った鉄瓶に注いでいる最中も、煩いくらいの湯気を上らせている。お茶が煮出されるまでの間、僕は静華の言動の意味を探った。いくら考えても意図は読めず、諦めて湯呑にお茶を注いだ。思いのほか煮出していたのか、緑茶はかなり深緑色をしている。  あと十秒で手のひらが限界だ、とか考えながら、僕は転ばぬよう気を付けて階段を上がる。両手が湯呑で塞がれた僕は、半開きになったドアを足で押して開いた。そこには、何故か帰りの支度をしている静華の姿があった。 「え、静華、もう帰るの?」 「そう。蒼依を怒らせちゃったから」 「いや、正直全然怒ってはいないよ。意味が分からなかっただけ」 「知ってる。冗談だよ」  静華はスクールバッグを持ち上げて、「普通に予定あるから帰るの。んじゃ」と言い、ホワイトボードに〔お邪魔しました。またお話聞かせてください。〕と書き残し、そそくさと菜々子の部屋から出て行った。  静華がいなくなってから、僕は熱い緑茶に口をつけながら、菜々子に静華の話をした。 〔変な人だったでしょ〕 「うん。でも、面白い人だったよ」 〔というか、キスの質問は答えなくてよかったんだけどね?〕 「別にチューくらい平気だよ」 〔僕は恥ずかしかったの〕 「私もだよ。でも、何でも答えるって言っちゃったから」 〔なーこは素直すぎね〕 「褒めてるね。あざっす!」 〔褒めてない〕 「がーん」 〔でもまあ、あんな感じで神奈川県一の高校文芸作家なんだから、嫉妬しちゃうよ〕 「そうだね。才能に満ち溢れてるんだよ、きっと」 〔才能いいなあ〕 「私は、アオくんも才能に満ち溢れてると思うよ」 〔どうして?〕 「私ね、何かを頑張り続けられる力のことを才能だと思ってるの。だから、静華さんも、アオくんも、私からすれば才能に満ち溢れてるの」  静華に「頑張る」という言葉が似合わず、僕は菜々子の価値観をすぐには呑み込むことができなかった。菜々子らしい、優しい考えなのかもしれないけど、勝負の世界では甘すぎる気もする。 「だから、大丈夫だよ、アオくん」  何が大丈夫なのだろう。 「絶対に、神奈川県で一番になれるよ。静華さんだって超えられる」  菜々子の言葉で、僕は壁側に追いやられた自分のスクールバッグの中身を思い出す。紛れ込んでいるのは〔彩明学園文化祭 招待券〕と書かれたチケット。一昨年、生徒と一般客の間でトラブルが起こり、それをきっかけに全くの部外者は参加できぬよう措置が取られた。そこで誕生したのがこのチケットだ。今日、菜々子の調子が良ければ渡そうと思って担任から貰ったもの。昨年と同様、今年も菜々子に文化祭へ来てもらおうと足掻いた証の一枚。  こんなもの、今の僕が菜々子へ渡せるはずが無いことぐらい、わかっていたはずなのに。  僕は心の中でどこか、招待状を渡せば、それをきっかけに外出へ繋がるかもしれないと考えていたんだ。浅はかだった。歯がゆい不誠実さで打ち砕けるほど、菜々子にとって玄関は脆い壁ではない。菜々子の身体は、僕の想像をはるかに凌駕して、この部屋に張り付いているんだ。僕は菜々子を外へ連れ出すという結末を急ぐあまり、大切なことを忘れていたのだ。 —―神奈川県で一番の高校文芸作家。 〔当たり前だよ。必ず、あの菫の庭にもう一度連れて行くから〕 「期待してるね」  期待……期待……期待……。菜々子がくれた「期待」が僕の中で反響し、効力を大きく膨れ上がらせる。燃料が撒かれた雑草地帯に、一つ、炎を放ったように、僕の心は情熱で激しく燃え上がる。歯止めが利かないとは、こういうことを言うのだろう。書きたい、書きたい、書かせろ、今なら書けるから、今すぐに僕に書かせろ。咆哮に似た声が脳裏にぎんぎんと響き続けている。  いてもたってもいられなくなった僕は、呆然とする菜々子を置いて、すぐさま家を飛び出した。おびただしく燃え広がるこの炎が消える前に、僕は何かを書かなくてはいけない焦燥に襲われている。  スマートフォンのメモ帳を開く。アイデアが湧き出てくる。インパルスが走って、シナプスが信号を急ぎ足で点滅させている。フリック打ちをする指が、僕の思考に追いつかない。アイデアの炎が鎮火する前に、僕はできるだけ多く文字を書き起こした。
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