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   十一月初旬、文化祭当日。この日に限り学校という柔らかな監獄は、いつもの規律的な香りから解放される。普段よりも短い女子生徒のスカート丈。派手色をしたクラスで揃えたパーカーやティシャツ。制限されることのない四方八方を飛び交う喧騒と活力。準備期間を含め、文化祭というものは、学校全体の顔色を明るくしてくれる。  髪をワックスで固めた二人組の男子生徒が、〔三年一組 ☆ウルトラ旨い焼き鳥☆ 中庭テント〕という看板を首からぶら下げて、大声で模擬店を売り込みながら廊下を歩いている。そこへ、彼らに衝突する勢いで、一人の女子生徒が「ダンス部始まるよ! 早く行くよ!」と走り込んできた。三人まとめて廊下を急ぎ足で駆け抜け、体育館がある方向へと加速する。普段なら廊下を走れば叱責を受けるだろうが、今日だけは青春に免じて、その横を通りすがった教員も見て見ぬ振りをしていた。  そんな様子を、僕らは校舎二階、二年一一組の教室内から眺めている。  文化祭の出展形態の中で、展示ブースの静けさは却って悪目立ちをしてしまう。期間中、僕ら文芸部は、あくまで文化部らしく、鉄板もコンロも使わず、人も驚かさず、景品も用意せず、ただ、室内を簡単に装飾し、部誌の販売を行っている。教室のドアに申し訳程度で、突っ張り棒を使って垂らした暖簾が、良い感じに地味さを奏でていた。 「俺らの青春って、ちょっと静か過ぎやしないかなぁ」  机の上に座り足を組んでいる静華が、窓辺から、食品模擬店が建ち並ぶ中庭広場を見下ろして呟いた。  教室には僕と静華しか残っておらず、静華の言葉は、僕が何か反応を示すまでこの空間を漂い続ける。 「まあ、文芸部っぽくて良いと思うよ、僕は」 「それ本気で言ってんだったら、蒼依は正真正銘の文芸部員だね」 「なんかそれ、嬉しくない」 「わかる。名前がダサいよな。何だ、文芸部って。流行らん名前してる」  静華は腕を組み直し、口先を尖らせて言った。 「まあ、僕らにはクラスの方もあるから」 「はあ。蒼依、俺のクラスの出し物、知ってる?」 「何?」 「流しそうめん」  ぶはっと、僕は笑いを噴き出した。 「いや時期」 「だよなぁ。それに、ありゃ流す人間と盛り上げる人間二人いれば成立するからさぁ。準備期間は面白かったけど、当日はやることなくて。俺なんて、三日間のうち、シフト無しだよ? こんなクラTまで作っといてさ」  静華の身に着けているクラスティシャツに視線を向ける。真っ白な半袖生地の中央部分に、おじさんの顔が流しそうめんと共に流されているイラストが描かれている。「センス独特過ぎない?」何か中世の処刑方法と説明されても納得のいく、斬新なイラストだった。 「俺も発案段階では皆と盛り上がったんだけどさ、届いてみると、ひでえのなんの」  更に静華は教卓の上でくるっと身体を回し、僕に背中のデザインも見せてくれた。〔早川クラスは流されない。〕と青字の明朝体で書かれている。流しそうめんなのに、流されないとは一体。 「ごめん、ダサい。しかも後ろ前でイラストと文字に矛盾がある」 「んでしょ? つまり終わったわけよ。俺の青春」  それでも、強制ではないはずのクラスティシャツを着ているあたり、静華の人柄が顕著に滲み出ている気がした。 「それに比べて、蒼依は良いよな。パーカー、変なデザイン無いし」  僕が着ている藍色のパーカーは、左胸の辺りに小さくタピオカドリンクのカップを模したロゴが入っているだけだ。〔早川クラスは流されない。〕とは打って変わって、落ち着きの仕上がりとなっている。 「有り難いよね。こういうのなら」 「それにさぁ。なんだよ、タピオカ&ナタデココって。欲張りだろ。文化祭っぽいし」  僕のクラスで行われた出展アンケートでタピオカが上位に挙がり、それで即決定かと思いきや、クラスメイトの一人が「タピだけじゃ嘗められるからナタデココもやんね?」とか言い出して、二つのドリンク販売を行うことが決定した。 「静華のクラスも、流しタピオカとかなら、青春だったんじゃない? ほら、掴んだタピオカをミルクティーにつけて食べるの」 「馬鹿言うなよ。並みの動体視力と箸捌きじゃ流れてくるタピオカなんか掴めないだろ。それに、普通タピオカは一粒ずつ食わないし」 「そっか。じゃあ、ミルクティーでタピオカ流して、それを皆がストローで吸うとか?」 「不清潔で、地獄絵図。まるで蚊だ」 「お手上げだね」 「流す時点でお手上げだったんだなぁ。というか、蒼依はシフト大丈夫なの? なんか人気店になりそうだし」 「僕、作るのも接客も苦手だから、それをここに置いておく条件でシフト外してもらった」  僕が指をさした先には、〔二年四組 タピオカ&ナタデココドリンク♡ 一杯三五〇円!〕とポップ体で書かれた看板が設置されている。マッキーペンのでこでこしたカラーリングが良い意味で煩い。 「うちに置いても宣伝効果無いっての」 「そうかもね」  派手な看板の隣には、文芸部が毎年文化祭用に発行する部誌『文彩』が山積みになっている。一冊百円で、中身はオール短編小説。普段、部活動へ積極的に参加しない部員たちも、この部誌用にだけはしっかりと作品を提出している。勿論、僕と静華の新作も掲載されている。  今回静華が文化祭用に書き上げた作品『メアリー』は、統合失調症がテーマの小説だ。統合失調症を患う一人の女性を恋人に持った男の話を描いている。知識の乏しい者にとって、グレーな部分の多い統合失調症というテーマへ、ここぞとばかりにアプローチを仕掛けている。恋人として、異性として、同じ人間として、彼女と向き合うことへの苦悩が綿密に描写されていた。さすが、その一言に尽きるクオリティだった。  一方僕の『絡繰りトーキョー』は、上京し立ての青年が「トーキョー」という街を再構築可能な神の力を享受したことで物語が始まる。青年は七日間のうちに必ず「トーキョー」を完成させなくてはいけない使命を負うが、田舎街出身の経験とのギャップから、全く新しい街の形を作り上げ始めてしまう。街並みが変わると人々の様子も変わっていく様子を書き上げた。今回は短編ということもあり、「トーキョー」崩壊の一日目だけを描いて終わらすという手法をとった。正直、続きを書く気は無い。  部誌は毎年部費から予算を捻出し、百五十部ほど製本されるのだが、ここ数年、売れ行きは低迷し、百冊は余ってしまうらしい。それでも、生徒会から支給された予算を減額されない為にも、無駄に百五十部刷ることは前提なのだと部長は教えてくれた。 「今年も部誌余るかなぁ」欠伸混じりの静華が言う。 「静華の作品が神奈川県で最優秀取ったんだ。伊野静華の新作短編掲載ってだけで、ちょっと気にはなるけどね」 「蒼依は俺を買いかぶり過ぎ。所詮高校文芸だよ。興味ある教員か保護者が買うぐらい。あと、本当に読書好きな生徒とかね。まあ実際、俺の功績で売れてくれれば、願ったり叶ったりなんだけどさ」  部誌の横には小さなお菓子の缶がある。それが文芸部展示ブースのレジスターにあたるのだが、僕も静華も、レジ前に座っていない為、いつ金が抜かれても文句は言えない。 「百円の価値、欲しいなぁ」  静華が両腕を頭上に伸ばしながら言った。声に張りがなく、気が抜けている。 「あげるよ、百円の価値」  僕はポケットから財布を取り出して、百円玉を缶の中へ入れた。そして、山積みになった部誌から、一番上に置かれたものを一冊手に取る。 「蒼依、自分の分持ってるだろ。なんで買ったの」 「僕が持ってるのは、部員って理由で無料配布されたものだから。ほら、ちゃんと百円の価値がついたよ」 「ふうん、なかなかキザだねぇ、蒼依も。まいどあり」  分かりやすく喜びはしなかったが、静華の頬は綻びを隠せず多少歪んでいた。もう何度も開いた今年の部誌を、改めて捲る。様々な人間が、様々な価値観を持って書いた作品が、一冊の本になっている。こうして形に残るのがこの部活の良いところなのかもしれない。 「というか、あと一時間で俺らここのシフト交代じゃん?」 「うん?」 「俺さ、行きたい場所あるんだよね。一緒に回ってよ」 「いいよ。あ、でも後でちょっとクラスの方には顔を出したいかも」 「全然かまわんよ。俺もタピオカ飲みたかったとこだし」 「ありがとう。ところで、静華は何処へ行きたいの?」  教卓から飛び降りた静華が、机の上に散らばった文化祭のパンフレットを手に取る。顔を近づけ、ぺらぺらと捲って何かを探している。パンフレットとにらめっこをしながら僕へ近づいた静華が「あった!」と叫んだ。指先でなぞった部分には〔視聴覚室/演劇部〕と書かれている。 「演劇部? 行きたいの?」 「おうよ。演劇、観に行こうぜ」  てっきり焼きそばとかホットドッグとか、そういうジャンクフードの食品模擬店を想像していたから、何だか意表を突かれた感じだった。 「静華、演劇部に知り合いでもいるの?」 「まあね。というか、単純に興味あるんだよ。今回の公演」  僕は「ちょっと貸して」と言って、静華の手からパンフレットを抜き取った。  彼が開いたページの演劇部紹介欄を読み込む。〔視聴覚室/演劇部 今回は彩明学園演劇部オリジナル脚本『虚実色のキャラメルマキアート』を上演します。上演時間は約一時間です。是非、ご来場下さい。〕と書かれている。独特なタイトルに、内容が全く想像できない。 「蒼依、演劇は観たことあるか?」 「全く。初めてだよ」 「んじゃあ楽しみだ」 「静華はあるの?」 「まあ、数回な。姉が舞台好きで、たまに」 「そうなんだ」  静華と話していると、段々と胸が高鳴ってくるのが分かる。演劇は、一体どういう刺激を僕に与えてくれるのだろうか。そう思うと、この長く退屈な展示の受付時間が更に億劫になっていくのを感じた。    *  視聴覚室の入り口では、衣装に身を包んだ部員たちがモノクロ印刷のフライヤーを配っている。僕と静華は一枚ずつフライヤーを受け取り会場内へ入る。「お好きな席へおかけ下さい」と言われ、後部席へいくほど段差が高くなっている視聴覚室を見渡した。最大五〇人は収容出来る室内に、星のようにまばらにぽつぽつと人が座っている。ぱっと見て十人と少し。そのほとんどが、教員や保護者で、派手なティシャツや制服姿の背中は見えない。僕は静華に連れられるまま、後部席の中心に腰を下ろした。 「静華」 「ん?」 「彩明学園の演劇部ってどれぐらいの実力なの?」 「いやぁ。蒼依が何を基準に実力を図ってるか分からないけど、結構廃部スレスレらしいよ。部員数も少ないし、うちと違って賞を取ってるわけじゃないから。まあ、この客足見れば、大体分かるでしょ」 「なるほど。それで、静華の知り合いって、誰?」 「ああ、演劇部の部長やってる先輩で、若林(わかばやし)さんって人だ。今回の主演で、脚本もその人が書いてる。フライヤー見てみ」  彼はどんな繋がりで演劇部の先輩と知り合ったのだろうか。そんな疑問が浮かびはしたが、静華へそれを訊ねる前に、僕はフライヤーに目を落とす。 〔『虚実色のキャラメルマキアート』 僕は苦悩し続けている。いつから苦悩しているかも忘れるほどに。僕はひたすら考える。考えたって正解には辿り着けやしないのに。―画家を目指す男子大学生のハルキは、ひょんなことから警察に追われる連続猟奇殺人鬼を部屋で匿うことになってしまう。裏社会の重鎮であった彼を保護したことで、ハルキの家には、数多の罪人たちが集まり始め……。正義と悪、事実と虚実、甘いと苦い、表裏一体の絶望を味わう一時間。脚本・演出・舞台監督:若林宗介(しゅうすけ)……〕 「面白そうだね」 「んだべ。若林さんは多彩だからなぁ。何でもできる」  静華は人を褒める時、少し虚ろな瞳をする。フライヤーの文字を追いながら呟く表情の意図が、僕は未だに全く読めないでいる。 「あ、あの人」  顎を突き出して、舞台袖から飛び出してきた一人の男子部員の存在を静華は僕へと知らせた。白いワイシャツに黒いスキニーというシンプルな格好をしている。「あれが若林宗介さんだよ」静華と若林さんの視線が混じり合った瞬間、彼は爽やかな笑顔を連れて、僕らの席まで嬉しそうに走ってくる。 「伊野くん、来てくれたんだね」  声まで透き通っている。極端に高くも低くも無い、聴きとりやすい声。 「別にただ面白そうだから来たんですよ。楽しみにしてますね」 「任せて。あ、友達までありがとう。彼が伊野くんの言っていた立花くん?」 「初めまして」  若林さんが僕の名前を口にして、着飾った平常心の上から素肌を撫でられた気分になった。  軽い挨拶だけを済ませた彼は、再び自分の巣へ帰るように、袖から舞台裏へと消えていく。 「なんか、主演、って感じの人だったね」 「だろう? 若林さん、同期がこの演劇部にいないから、自分が率先して盛り上げて行きたいってかなり意気込んでたんだよ」  若林さんと部長が被る。 「あの人、去年から知り合いのとこで劇団見習いみたいなのをやってるらしくて、週末とかは稽古場行ってんだとよ。進学も就職もせずに、卒業したら演劇一本だって。本当好きなんだろうなあ、演劇が。他の部員たちがどうか知らないけど、若林さんの演技力は、そこら辺の高校演劇から頭一個分抜けてるよ」 「そうなんだ」  やっぱり、何故、静華がそんな演劇人と知り合いなのか気になった。さすがに耐えきれず、問い詰めてやろうと思ったタイミングで、開演のブザーが場内に響き渡る。照明が一斉に落ち、僕は仕方なく口を噤んだ。 「ま、俺はあの人、苦手なんだけどね」  滑り込んだ静華の言葉に食い気味で、開演前のアナウンスが流れる。 「本日は、彩明学園演劇部文化祭公演『虚実色のキャラメルマキアート』にお越し頂き、誠にありがとうございます。上演時間は約一時間となっております。上演中は携帯電話やスマートフォン、音の鳴る電子機器等はマナーモードに設定、もしくは電源をお切りください。ご協力をお願い申し上げます。また、上演中、気分が悪くなられた方は、すぐさま出入り口の係員にお申し付け下さい。それでは、間もなく開演です」  スピーカーから溢れる、女子生徒の完璧なアナウンスに僕の気分も高揚する。  開演を今か今かと待ち望んでいると、今度はスピーカーから聴き慣れない洋楽が爆音で流れる。始まる。生唾を飲みながら、舞台上に視線を預ける。  音楽が不自然に途切れ、黄色いスポットライトが舞台上の若林さんを照らす。 「正義と悪と、事実と虚実と、甘いと苦いと。対義に位置するそれらは全て、表裏一体の側面を持っていると思いませんか。僕はこれから、あなたの常識を全力で壊しに参ります。感情が不可抗力的に沸き上がり、細胞が体験をくれと騒ぎ出す。あなたの中で常識が壊れる音が響く。それは、喧騒と静寂の狭間に落ちる一滴のカタルシスから始まります。これは、正義と悪と、事実と虚実と、甘いと苦いと、僕とあなたの物語」  若林さんが長い台詞を終えると、舞台上には一斉に別の演者が登場し、激しいサウンドに合わせ、七色のフラッシュライトの中でダンスを繰り広げる。踊り終わって暗転し、その数秒後には、明転。若林さんがキャンバスに向かって筆を立てているシーンへと移り変わる。目まぐるしく起こる場面変化の中に、僕は気づけば取り込まれていった。    *  上演後、僕らが視聴覚室を出ると、演者たちが廊下にずらりと並んでいた。 「二人とも、どうだったかな? 楽しんでくれたかい?」  前髪をカチューシャで持ち上げた若林さんが、汗だくのまま僕へ握手を求めてきた。手を握ると、思いの外強い力で握り返された。  僕の後に、若林さんは僕よりも長く静華と握手をしている。そこには二人の空気が発生していて、感想を述べる隙すら与えてくれないみたいだった。 「伊野くん、どうだった?」 「さすが若林さんの作る舞台って感じでしたよ。演技上手いですね。紛う事なきハルキがあの場所には居ました」 「いやあ、君から褒めて貰えると嬉しいね。演技が上手いって感想は、月並みだけど、演劇をやる者にとってそれ以上の賞賛はないから。ありがとう。後は脚本さえ、もっとしっかりしていればな」 「十分クオリティの高い脚本でしたよ。演劇向きで、テンポの良い話でしたし」 「伊野くんにそう言われたって、手放しで喜べないよ。派手な演出で誤魔化しているだけさ。もっと血の通った、人間の生に触れる脚本で演じたかったな、俺は」 「若林さんなら、どんな話だって演じることができますよ」  二人の空気から外された僕は、若林さんと静華の会話に関心を持たないふりをする。しかし、聴覚は一語一句を捕らえている。二人の会話には些細なズレが生じている。噛み合っているようで、何か重要な部分だけを隠しながら言葉を刻んでいるような、何かがある。 「では、失礼しますね。行こう、蒼依」  会話の尖端を見つけたというより、無理矢理千切ったみたいに静華は話を終わらせた。僕をその場から押し出すように、視聴覚室前から離れていく。 「いいの? 若林さん、まだ何か話したそうだったけど」 「いいんだよ。暇さえありゃずっと喋ってるような人だから。それより、次だ次」  その後も静華の口から、『虚実色のキャラメルマキアート』の感想が語られることは無かった。もう過ぎたことだといわんばかりに先を急ぐ静華に気圧され、僕の中に発生した、はち切れんばかりに膨らんだ感想も、人知れず空気を吐き出して萎んでいくのが分かった。    *  静華に連れて来られた場所は、去年、文化祭期間中に僕が入り浸っていた懐かしの第二アリーナだった。入り口付近には、〔軽音楽部文化祭ライブ~SAIMEI-ROCKFES14〕と書かれた大看板が設置されている。館内へ入らずとも、爆音が常時開放されたドアの間から大量に漏れている。 「静華って、音楽聴くんだ」 「なんだよそれ。聴かない奴なんかいないだろ」  大看板の下には、演目の順番と時間が記載されたポスターが貼られている。ほとんどが僕の知らないバンド名で埋め尽くされていた。勿論、SHAYOLの文字は見当たらない。 「てか、よく来てくれたよ。蒼依、気まずかったら文芸部のとこ戻っても良いよ?」 「文化祭のライブはこんな大きい会場でやるから、客の顔なんて全く見えないよ。それに、部員は皆ステージの足下に群がっているし。そこに近寄らなければ、一般客なんて放っておいて楽しんでいるような奴らだからさ」 「そんな言い方しないの。まあ、去年は蒼依も立ったステージだもんなぁ」 「もう一年前だよ。覚えてなんかいない」  覚えていないはずがない。第二アリーナの、無駄に広い会場。足下に集まる部員の笑顔。そして、いくら暗闇であってもはっきりと分かる観客の顔。菜々子は恥ずかしがって、高校の友達と端の方で僕の歌を聴いていた。 「まあいいや。別に俺が聴きたいから行くだけだしな。入ろうぜ」  僕は静華より四歩遅れで第二アリーナに足を踏み入れる。ステージが近づくにつれて、次第に大きくなる音量。僕らが入ったタイミングは、丁度メタル系のバンドが演奏中だった。爆音を忘れた耳が素直に煩いとぼやく。ステージ上に一つも知っている顔が無くて、あれが一年生バンドだと理解する。 「うぉー。すげえ音だなぁ」 「多分、部活内でもダントツで煩いバンドに当たったね」 「めっちゃ頭振ってる。ステージ下の部員たちも頭振ってる。なんか、すげえ」 「ああいうのが楽しいんだよ。ライブってさ」 「え、じゃあ蒼依も去年はあの中でああやって猛るように頭を振ってたの?」  両脇にヤマさんと誠を付け、肩を組みながら繰り返したヘドバンを思い出す。 「まあ、同調圧力に負けたんだよ」 「照れんなって」 「うっさい」  ライブで重要なのは一体感だった。部員たちがああやって一致団結することが、ステージ上で演奏する者のテンションにも繋がる。一〇月の終わりに、汗だくになった記憶。決して色褪せはしてくれない。だから僕は、その記憶を無理矢理セピアと名付けた箱へ詰めて、手の届かない場所へと押しやったのだ。  メタル系バンドの一年生たちがはけると、今度はカラフルなつなぎ姿のガールズバンドがステージ袖から「やっほー!」と言いながら飛び出してくる。足下で構える部員たちが、「可愛い!」とか「目線くれ!」みたいな、音楽に全く関係のない黄色の声援を上げていた。 「今出てきたバンドのベーシスト、あれ、僕の元バンドメンバー」  京香さんを見て「京パイは本日も健在っすねぇ!」と叫ぶ声が聴こえた。呆れ顔の京香さんは、その発言を無視して、ベースのチューニングをしている。一方、声を荒げた部員は、他の部員たちから取っ組まれ、「セクハラ最悪!」と怒られている。楽しげな雰囲気は何処までも続いている。その輪の中心にいたのは、誠だった。 「え、一番美人じゃん」 「確かに美人だよね。あと、胸も大きい」 「ふはっ。残念。俺は女の胸に興味ありませんでした。忘れたの?」 「知ってるよ。言ってみただけ」  ボーカルのMCが終わって、人気邦楽ロックが次々と演奏される。ガールズバンド特有の、個人名コールがたまにあって、声援は猥雑さを極めている。それでいて、やはり皆、楽しそうだった。 「ああいうのってさ」 「あん?」  ライブに見入っていた静華に声を掛ける。 「ああいうのって、端から見たら馬鹿っぽいけど、やっている本人たちは楽しくて仕方ないんだ。なんか、居場所、って感じがしてさ。ステージ上から届く音楽が、そのライブに関わる全ての人の居場所を作り上げてくれる。少しの恥ずかしさとか躊躇いさえ乗り越えれば、ただひたすらに楽しくて、我を忘れて没頭できる。そんな時間が、ライブなんだ」 「んなこと、言われなくても何となくわかるよ」  静華の語尾には優しさが込められている。 「それでも、僕にはもう戻れない場所だから。あそこからの景色を忘れてしまわなければ、前には進めないだけなんだ」 「ふーん。蒼依、また音楽やりたくなった?」  核心を突くような問いに、言葉を見失う。 「素直に言ってよ。俺に嘘は通用しねえからさぁ」 「……僕は、きっと菜々子が事故に遭わなければ、死ぬまで音楽を続けていたと思う」 「そうだろうねぇ」 「でも、そしたら静華には出逢えなかった」 「まあ、そうなるわな」 「だから、何も間違いではないと思うんだ。偶発が重なりあうことを人生と呼ぶなら、僕が音楽を辞めたこともまた、人生の一つだから。勿論、自分の決断を理解し難い部分はある。どう足掻いたって、理解は九九パーセントにしか到達しない。だから、残りの一パーセントは、忘れたふりをするって決めたんだ。そうするしかないと気づいた日から」 「そっか。蒼依も、色々越えたんだな」 「何も越えずに生きている人なんかいないよ。僕は書くよ。静華を越えるために」 「それは楽しみだな。心して待ってるよ」  ステージ上の景色を、きらきら光る黒いテレキャスターを、賛美に燃ゆる僕の歌声を、幸福を分かち合う仲間との時間を、居場所を作るこの感覚を、全て、忘れて生きていくんだ。大切なものの序列を、僕は僕自身で決めたんだ。今更迷うことなんてない。そう思うほどに、残りの一パーセントが、「忘れないで」と心の中で泣いている気がした。
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