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 片付け日を含む、文化祭期間の全日程が気づけば終了していた。生徒たちは、明後日からまた日常へと戻っていく。装飾品で本来の姿を見失った教室が、再び整理された学習場へと我に返る。 「じゃあ、僕は教室の鍵を返してくるから、静華は昇降口で先に待っていて」 「はいよ」  戸締まりと最終確認を終えた僕は、職員室へ六日間お世話になった教室の鍵を返却する。  結局、部誌は七〇部も残ってしまった。残りは、またあの狭い部室の端っこに積まれるのだろう。いつか誰かが処分すると決めつけて、皆、増えすぎた過去の遺産に見て見ぬ振りを貫くのだ。  職員室から出て、昇降口へと向かう中央階段を降りようとした時、階段を上ってくる息を荒げた京香さんと出会した。躊躇いが透けてしまわぬよう、泳ぎかけた目の焦点を合わせる。 「蒼依くんだ。良かった。文芸部のところ行ったら、もう施錠してあって、帰っちゃったかと思ってた。探したんだよ」  窓の外は薄暗く、時刻はもう十七時を過ぎている。既に練習を再開した野球部による、ナイターの灯りだけがグラウンドを照らしていた。  軽音楽部員限定の赤いパーカーを着た京香さんは、右手にうちの部誌を携えている。僕はあえて、そのことに自分からは反応を示さなかった。 久しぶりの再会からか、僕は京香さんの目を直視することができず、瞳から視線を横へずらした。僕とバンドを組んでいた頃より、ピアスの数が増えていた。黒髪のショートカットを左側だけ耳にかけているおかげで、軟骨部から斜めに刺さった前衛的なピアスが覗ける。 「お久しぶりです。初日、ライブ観に行きましたよ。格好良かったです」 「嬉しい」 「ピンク色のつなぎもよく似合っていました」 「やめてよ。すごく恥ずかしかったんだから」 「ガールズバンドって華やかで良いですよね。女子、って感じがして」 「仲良し四人で組んだ感じだからね。まあ、私が恥ずかしがる衣装を着せたがるところは、SHAYOLのメンバーと同じだけど」  懐かしいバンド名が聴こえたが、親近感を覚えはしなかった。 「誠とヤマさんも楽しそうで良かったです」 「ヤマと私にとっては最後の文化祭だからね。特にヤマは部長だし、気合い入ってたと思うよ」  ヤマさんは、歳下に限らず、同級生や先輩からも何故か「ヤマさん」と呼ばれていた。その少し老けた顔立ちと、学年を問わず愛される性格故に「ヤマさん」だったのだろう。その中で、京香さんだけは「ヤマさん」のことを「ヤマ」と呼び捨てにしていた。そんなところも、何だか余計に二人の仲の良さを表していて好きだった。 「ヤマさんが部長。まあ、そうですよね。愛されキャラですから、あの人」 「バカで優しいだけだよ」 「誠は何も変わってなくて安心しました。前髪、やっぱり長すぎますけどね」 「それがチャームポイントでしょ、彼は。誠くん、うちの部では最多の三バンド掛け持ちしてるんだ。暇さえあればドラム叩いて、音楽バカって感じ。勿論、良い意味でね」 「人気者は引っ張りだこですね」  僕らは、こうしてわざと向き合って話しているのに、一切自分の話をしようとはしなかった。「蒼依くん」 「はい?」  改まった京香さんが、部誌を僕に見えるよう突き出して、首を傾げながら微笑む。 「小説、面白かったよ」 「ありがとうございます。嬉しいです」  いつからだろう。僕の中で「上手い」よりも「面白い」が最高評価へと変わったのは。 「ねえ、サイン頂戴。先生」  おどけた京香さんが部誌の表紙裏の白紙ページを開いて僕へ差し出す。 「先生とかやめてくださいよ。それに、サインなんかありませんから」 「ほら、適当で良いから」  油性ペンを渡された僕は、校内掲示板を下敷きにして、仕方なくサインを書き上げた。手の震えに負けぬよう、荒く筆を走らせる。 「はい。これしかないので」 「……これ、SHAYOLの皆でサイン考えた時のやつだね」  大して有名でもないのに、一丁前にスタジオで休憩中にサインを考えたあの時、僕は何にだってなれる気がしていたし、それを疑いはしなかった。 「だってこれしかないんです。ごめんなさい」 「ううん、ありがとう。大切にするね」  京香さんはサインが入った部誌を大切そうに胸元で抱えた。 「蒼依くん、本当に器用な人だと痛感するよ。私、文章とか全く書けないからさ」 「確かに。京香さん、歌詞だって人任せでしたもんね」  冗談を言った僕に、「うるさいなぁ」と京香さんが笑う。 「なんか、この感じも懐かしいね。私ら、バンド組んでた時もこんな感じだったよね。誠くんはいつも喧しいくらい元気で、蒼依くんは冷静だけど、ちょっと先輩を小バカにしてて、二人に世話を焼く私が声を荒げると、三人まとめてヤマに怒られる」 「そうでしたっけ。僕は常に優等生だった気が」 「阿呆なこと言わないの。色々問題児だよ。勝手にバンド、抜けちゃうしさ」  京香さんが嫌味で言ったわけではないことは分かっている。それでも、気の利いた言葉を返せないくらいには、僕の中にまだ動揺が残っている。 「ごめん。余計なこと言ったね」 「いや、こちらこそ」 「蒼依くんがバンド辞めたのは仕方ないことだったからね。今更責めたりしたくないから」 「京香さんが僕を責めたことなんて、一度もありませんよ」 「そんなことないよ」 「だって京香さんがいなければ、今頃僕は誠とヤマさんにボコボコにされていますから」 「まあ、それはそうかも。特に誠くんは本気でボコボコにしてきたかもね」 「だから感謝しています。京香さんはいつも僕の味方をしてくれていたので」 「そんな。私はただ、そうしたかったから、蒼依くんの味方でいただけだよ」  僕に半歩近づいた京香さんのピアスが柔らかく揺れる。 「ねえ、訊きたいことがある」 「なんですか」 「蒼依くんは、小説書くの、楽しい?」  どう答えるべきなのか、僕には一瞬で正しい返答を見つけることができなかった。  京香さんの気持ちを汲めば、僕はここで、「やっぱり音楽の方が楽しいです」なんて言ってみせるべきだ。けれど、京香さんに平気な顔で嘘をつけるほど、僕は素直さを失ってはいない。「楽しさ」という側面から音楽と文芸を比べることはしてこなかった。それは、答えが歴然としていて嫌になるからだ。  あの日、バンドメンバー全員を町田のスターバックスに集め、一時間近くかけて、僕が軽音楽部を辞めて文芸部へ転部する経緯を、菜々子の話も何一つ隠さずに語った。話が終わったあと、冷え切ったコーヒーを一気に飲み干すと、ただ苦く酸っぱいだけだったことをよく覚えている。  話の最中、何処か不服そうな、「それはお前の事情だろ」と言いたげなヤマさんと誠をよそ目に、京香さんだけは、僕へ理解の姿勢を見せ続けてくれた。途中、罰の悪そうな僕を支える言葉を沢山かけてくれた。  帰り、ヤマさんと誠へ別れを告げた後、僕は京香さんから食事を誘われた。同じく町田にある小さなイタリアンレストランで、僕はお腹なんてちっとも減っていないのにパスタを奢って貰った。  食事を終えたあと、町田駅前の不格好なモニュメントの前で数十分だけ立ち話をした。話のゴールが見えなくなったあたりで、京香さんは僕に、 「私も蒼依くんの歌が好きだけど、私は、そんなことよりも立花蒼依という人そのものが好き」  と言った。  菜々子の話を聞いた彼女が、最初で最後に、僕へ零した素直さだった。  あの時、僕はできるだけ当たり障りの無い言葉を返したつもりだったが、それでも京香さんに涙を流させてしまった。後悔は無いが、どうしたって苦みばかりが残る別れになった。  僕は果たして、楽しいから小説を書いているのだろうか。何を言うべきか、考えれば考えるほどに嘘のエキスが混じってしまいそうで、僕は咄嗟に思い浮かんだ言葉だけを、シンプルに伝えることにした。 「きっと、楽しくなります」  わかりやすく歪んだ京香さんの表情が、やはり胸を痛めつける。 「そっか。なんか安心した」  この人は、いつだって、ただ優しい。 「でも、もしまた歌いたくなったら、いつだって連絡してくれて良いからね」  優しすぎるから、 「ヤマと誠くんは知らないけど、私は今でも、SHAYOLが好きだから」  僕の手に負えないほど、儚く微笑むのだ。  京香さんに「その時は、是非」とだけ伝え、目一杯の想いを込めて頭を下げて、僕は静華が待つ昇降口へと歩き出した。
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