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14
部屋に入ってすぐ、その汚さに焦りを覚えた。普段はそこまで気にはしないが、いざ、客を招き入れると思うと、これではまずいと追い込まれるぐらいには散らかっている。静華が一度家に帰り、スーパーで買い物を終えて、僕の部屋に来るまではあと三〇分ほどある。ネクタイを緩めた僕は、袖を捲り、早急に足の踏み場の作成に取りかかった。
予想よりも一〇分早く静華が僕の家に到着した為、僕はまだ慌ただしく掃除機をかけている最中だった。そんな僕にかまわず静華は買い物袋をテーブルの上に置き、部屋の隅で腰を下ろした。部屋を見渡して何かぶつぶつ言っていたが、掃除機の音に遮断されてよく聴こえなかった。
片付けが終わり、僕は脱衣所で部屋着に着替える。それから、冷蔵庫から二リットルの緑茶と適当なグラスを二つ持って部屋へ戻ると、静華が購入品を綺麗にテーブルの上に並べておいてくれていた。スナック菓子、珍味、お惣菜、酒。静華は、細い瓶タイプの酒を二本両手で持ち上げて、「どっちがいい?」と訊いてくる。
「未成年なのに、よく買えたね」
「制服でも着てない限り、スーパーで年齢確認なんかされないよ。ほら、どっち?」
「どっちでも」
「じゃあ、俺こっち」
青いラベルがまかれた酒を僕へ差し出し、「今夜は付き合えよ~」と静華は言った。別に、二十歳にならずとも酒を飲んでいる連中なんて周りに沢山いたし、環境のせいか、それが非行という認識もそこまで強くは無かった。軽音楽部時代では、先輩たちから酒を強制的に飲まされることも少なくはなかった。静華から手渡されたこの林檎味の瓶リキュールも、よく軽音楽部の奴らが飲んでいたような気がする。
「まあ、たまにはね。静華には世話になってるから、これくらいは付き合うよ」
僕はアルミキャップを回して、静華が突き出した瓶に自分の瓶を当てて音を鳴らす。「乾杯」と偉そうに僕らは微笑んで、瓶の先に口をつける。静華の瓶は赤いラベルが巻かれている。甘くて飲みやすいなと思いながら、僕は酒を身体へと流し込む。静華はテーブルの上に並んだつまみやお菓子を剥き始め、それを食べながらぐびぐびと酒を飲み進めている。
「お酒好きなんだね」
「おうよ。吐いたこととか無いけど、酔った感覚は好きだなぁ」
「将来は酒豪かもね」
「ビールとか、飲めないけどな」
酒は飲んでもビールが飲めないあたり、僕らはまだ子どもだなと実感する。
「飲めなくていいよ。まだ一七だし」
僕の声が少し裏返る。僕はあまり、酒に強い方ではなさそうだ。
「だなぁ」
「静華、煙草は吸うの?」
一瞬だけ口を噤んだ静華の頬は、もう仄かに赤く染まっている。
「蒼依は煙草嫌い?」
「別に」
「じゃあ、吸ってる」
僕の回答次第では、「吸ってない」になったのかと思うと面白くて、僕は噴き出すように笑った。そんな姿を不思議そうに見つめる静華は、酒が回ってきたのか、お気に入りの丸眼鏡を折りたたんでテーブルの上に置いている。
「まあ、吸ってそうだったし」
「なにそれ、匂いとか気になってた?」
「いや、全く」
「だよな。俺、制服の時は絶対に吸わないから」
「変な配慮だね」
「嫌だろ。煙草臭いって裏で言われんの。ヤンキーみたいじゃん」
「静華は十分ヤンキーだよ。僕、一人で酒とか煙草とか、そういう文化無いから」
「まあ、蒼依からしたらそうだよな。あ、酒とかのゴミは俺がまとめて持って帰るからさ。こんなんゴミ箱に捨ててあったら、蒼依のお母さんびっくりしちゃうだろ」
静華が酒の瓶をちゃぷちゃぷと揺らす。
「ああ、気にしないで良いよ。うちの母親、もうそういうこと気にするほど余裕無いから」
「どういうこと?」
瞳を丸めて首を傾げる静華は、本当に何も知らない顔をしている。それもそうだ。僕は今まで、菜々子以外に自分の母親の話をしたことは無かった。話したところで何かが変わるわけではない。それに、内容の重さで、相手に変な気まずさを植え付けるのが嫌だった。
「別に面白い話じゃないよ。楽しい会がちょっと冷める」
「でも、俺は知りたい」
「なんでさ」
「言わせるなよ」
静華の言葉で、僕は不毛な問いかけをやめた。これだけ付き合いがあって、僕の部屋に上がり込んでいるのだから、静華にも知る権利が少しはあるような気がした。彼の性格柄、話を聞いて何かが歪むことはないだろう。そう思った僕は、酒で舌を濡らして、呂律に気を遣いながら話を始めた。
「僕の母親はね、鬱病なんだ。僕が中学生の頃に発症したんだけどさ。主な原因は職場のトラブルだったから、すぐに仕事を辞めて、専業主婦になった。職場から解放されて、安定したかと思っていた矢先に、父親の出張が増え始めてね。ほら、うちの父親、作家を辞めてからフリーライターに転身したから、ほぼ家にいなくて。それで、その頃からまた不安定になったんだよね。
鬱病って、本当に予想ができないんだ。例えば、天気が良いってだけで気分が安定していたりすると、急な夕立一つでいきなり不安定になったりするんだ。一時期、自傷行為が酷いときは入院もしてもらった。僕が高校二年に進級したあたりで、母親は部屋に籠もるようになった。最近は、薬の効果で安定しているけど、最低限の家事だけをこなす以外は、やっぱり部屋に籠もりっきりで、買い物とかも行けなくなったみたい。僕、母親とは友達みたいな感じで、色々な話をするんだ。だから、静華の話もよく知っているよ。母親の部屋へ入って、僕が身の上話をすると、はっきりと笑顔を見せてくれるんだ。元々、父親と交際していた頃から精神的に強くはなかったらしいけど、母親も一人の人間なんだって思うと、別にこの状況を受け入れることが僕にとっては厳しい問題ではないと思ってね。生きてさえいてくれればいい。たまに、部屋で歌ったりすると、気分が乗る日なら、母親も一緒に歌ってくれるんだ。声楽科卒業生の意地なのか、未だに美声は健在で安心するよ」
僕の話を一通り聞いた静華は、何を言うわけでもなく、僕のことをじっと見つめていた。
一階の寝室で、母親は今日も生きている。静華に伝えたように、僕にはそれで十分なのだ。
「話してくれて、ありがとなぁ」
静華は今日も、人を悲しませるスマッシュを打たない。
「ほら、飲もうよ。僕の酒、これしかないの?」
妙な間が恥ずかしくて、僕は未だ三分の一も酒が残っているのに、他の酒を探す素振りを見せる。
「蒼依」
「うん?」
静華に名前を呼ばれ、新しい酒缶に伸ばしていた手を止めた。
「歌ってよ」
「え?」
唐突な歌唱依頼に、僕の声が再び裏返る。
「親譲りの美声、俺はまだ聴いたことないんだぜ。なんでもいいから、何か歌って」
「いきなりどうしたの」
「いいから」
「恥ずかしいから嫌だよ」
「元バンドマンなのに?」
「その言い方やめて」
「ほら、いいじゃんか。バンド時代に、何か代表曲みたいなの無かったの?」
アルコールが身体中を回って気分がほんのり良くなった僕は、一番上手く歌えそうな歌を思い返してみる。頭の中には、僕の初めてのオリジナル曲である【切望汽笛】のアカペラ部分が再生されている。あれなら、今でも上手く歌えるだろうか。
「別に歌っても良いけど、何で歌って欲しいかだけ聞かせてよ」
「この前、菜々子ちゃんに言われたからさ。蒼依の歌、一度は聴いてみたくて」
「今度カラオケでも行けばいいでしょ」
「今だから良いんだよ。今、俺は聴きたいの」
「わかったよ。その代わり、笑わないでね」
「笑うわけないよ」
僕は残りの酒を一気に身体へ流し込んだ。それから、すうっと息を吸い込み、吐息に声を乗せるよう、
汽笛が鳴る頃に また君を迎えにいかせてよ
濁り 立ち上る憤怒の蒸気がいつか
僕らの残酷を洗い流す雨となるのだろう
嗚呼 耳に残る歌を響かせて
切望汽笛よ 声を探して 僕は 今日も
と、歌い始めた。
冒頭部分だけで終わらせようと思った僕だったが、目を瞑りながら僕の歌声に耳を澄ませる静華に失礼だなと思い、結局、丸一曲分歌い切った。
歌い上げると、静華は優しい拍手を僕へ送った。
「菜々子ちゃんが、蒼依の歌を好きだった理由、なんかすごい伝わった」
「そういう感想とかいいから。普段何の感想も言わないくせに」
照れの気持ちから流れてくる微妙な沈黙を打ち破るかのように、静華は勢いよく立ち上がり、「よっしゃぁ。次は俺の美声だ」と、いきなり歌い始めた。お世辞でも上手いとは言えなかったけど、僕は手拍子で静華の熱唱に応えた。
*
「ちくしょう。何で俺は蒼依に勝てない?」
「小説で僕に勝ち過ぎだからじゃない? まあ、いずれ小説でも勝つけど」
かなり酔いが回ってきた僕らは、何故か二人してスマブラに夢中だった。テーブルの上には食べかけのつまみや、飲みかけの酒の残骸が散らばっている。僕も静華も顔を赤くしながら、コントローラーを必死に連打し続けている。瞼が少し重たい。
「よっしゃ、次は勝つ。俺はな、実はリンク使いなんだよ。だから今回は本気」
「それ、さっきも言ってなかったっけ」
「うっせ。おい、やめろよルイージとか。強そうじゃねえか」
「どうして勝てないのかな。停学貰えるぐらいには、暴力に抵抗ないはずなのに」
ステージは終点に固定で、一対一のゲームが始まる。
「蒼依、停学の話好きだな。もう忘れてくれよ」
「いや、先輩殴るって相当でしょ。詳しく聞いたことないけど、何があったの?」
僕の吹っ飛び%が0のまま、静華ばかり%が上昇していく。
「ああ、それね、俺がぶん殴ったの、若林さんなんだ。演劇部のさ」
「はぇ?」
一瞬画面から目をそらしたせいで、ステージから落ちそうになった。僕も0から16%へ上昇する。静華は画面に集中し、肩を揺らしながらコントローラーを指で叩きつけている。
「俺、高一の冬に高文連で準優秀取った時から、ずっと若林さんに目付けられててさ。演劇部で脚本書かないかって勧誘されてたのよ。嫌ですってかわし続けてたんだけど、俺が最優秀取った情報を若林さんが掴んでから、よりしつこさを増したんだ。それで、我慢の限界が来て、殴っちゃった。よし、いいぞ」
僕が呆気にとられているうちに、静華は僕のルイージへダメージを蓄積させていく。
静華51%、僕99%。
「あの若林さんがね」
「爽やかな顔して、陰湿な野郎だぜ、あの人」
静華69%、僕119%。
「でも、それだけで殴らないでしょ。何か決め手があったはず」
「あったよ。若林さん言ったんだ。『伊野くんの世界観を鮮明に映し出すのは小説じゃ限界がある。俺が力になりたい』って」
静華75%、僕149%。
「それで、あ、俺この人苦手だなって。何も分かってないなって思ったから殴ったんだ。まあ、粘着質で執拗な勧誘にフラストレーションも溜まり続けてたからってのが一番だけど。って、おっしゃ!」
静華75%、僕、吹っ飛びゲージ168%の状態で静華の回転切りをくらい、ステージから大きく吹き飛ばされて、死亡。
「俺、蒼依の一機減らした! すごくね!」
「まだ後二機あるから」
若林さんの顔と声で、静華が言った台詞が反芻される。その言葉に悪気は感じなかったのだけれど、何か、「書く」ということを全面的に否定している節が見えた。
静華から今の話を聞いて、ようやく若林さんの輪郭が見え始めた。そして、静華同様、僕も彼を苦手だと感じた。
*
ゲームを終えた頃には、時計の針はもう深夜の一時を指していた。
僕は静華へ「ベッドで寝てもいい」と提案したが、「俺は雑魚寝が案外好きだ」と言って、小さなクッションを枕代わりにして、僕より先に寝息を立てていた。灯りを消した部屋では、カーテンの隙間から漏れる月の光が線のように静華の寝顔を照らしている。美しい顔だなと思った。出逢ってからもう十ヶ月が経っているが、その美しさは、出逢った頃の新鮮さを保ち続けている。
彼は、どうやって生きてきたのだろう。人は何かしらを抱えて生きている。それが、当人の匙によって大なり小なりは変わってくるとはいえ、それでも僕らは、最低一つは何かを抱えている。
僕は何を抱えているのか。この両の手のひらを埋め尽くし、取りこぼさぬよう胸に抱き寄せたまま生きてきたものは何だろうか。音楽を辞めたことか、母親の鬱病か、菜々子の失聴か、才能への渇望か。候補が浮かびはするのに、どれも不思議と、「自分」と完全一致しない。
では、静華は何を抱えているのか。ああ、僕は静華のことを考える方が、答えを出すのが上手い気がした。静華は「孤独」を抱えているのだ。他者からの理解が及ばない世界で、一人、もがきながら生きている。もし、彼が書くことでしか自分を表現することができないのだとすれば、彼にとって、書くことは楽しいことなのだろうか。京香さんが僕へ訊いたことと被る。もし仮に、書けば評価されるものしか産めない人間がいたとすれば、そこに表現者としての葛藤は一切生まれないのだろう。それは、地獄に似ている。静華には才能がある。僕はその才能に心底憧れ、越えなければいけないと走り続けている。しかし、静華になりたいと思ったことが今まで一度もあったのだろうか。彼の網膜の裏側に潜む「孤独」の景色を、一度でも共有したいと思ったことはあったのだろうか。同じ景色とはいえど、僕は常に、僕なりの視点で静華の景色を見たがっていただけなのかもしれない。
僕は、静華のことを考えれば考えるほど、静華にはなりたくないなと思った。「孤独」と向き合いながら作品を生み出し続ける絶望が、僕には耐えられないような気がした。
ふと思い立って、ツイッターを開く。暗闇の中で青い鳥が飛び、〔@flog-sf-novel〕と検索する。部長の創作アカウントがユーザー欄のトップに表示された。
〔今夜は書ける気がする。アイデアが降ってきた。明日の更新、お楽しみに!〕
一二分前の投稿だ。いいねは五つ、付いている。
僕はそれから、寝ぼけ眼を擦りながら『密失の篭城』を現在公開されている第十一話まで読んだ。
部長の作品は、メアリース(作者の理想を詰め込みすぎたキャラクター)が頻繁に登場することで、その世界観のリアリティがいつも閑散としてしまっている。実体験が一切香らない、現実から乖離された話に、僕はどうしても集中することができない。結局、十一話まで読んだ後に残ったものが、何一つ無かった。
部長の作品を読み、ざわついた心を落ち着けようと、僕は手元にある静華の作品を読み漁った。『マゼンタカラーの反則性』『夜を越えない』『メアリー』、どれも、登場人物に極限のリアルを感じる。本当にこの場所に、この人間は存在していると錯覚するほどだ。
静華の作品を読み終えると、決まって僕は自分の作品を読みたくなる。『第四段階』『アナフィラキシーショック』『絡繰りトーキョー』。やはり、静華に比べればキャラクターの人間味が足りない。そこさえ磨けば、作品は更に向上していく。
麻生に構成や、外連味は評価された。自分にないものを埋めていく作業こそが、高い場所へ辿り着くための堅実な術なのだ。一回のジャンプで壁を越えるのが苦手な僕は、着実に、一段一段上り詰めるしかない。
酒が回って睡魔に襲われていたはずなのに、小説のことを考えると、一気に目は冴え始めた。静華が起きてしまわぬよう、ノートパソコンの灯りだけで執筆作業を始めた。時刻は二時を回り始めていた。
*
小鳥のさえずりが朝を告げ、部屋は灰色とターコイズの狭間に包まれている。あっという間に過ぎた時間に比例するように、凝り固まった肩と腰を、僕は強く揉み解す。
「寝てないんだ」
床で寝ていた静華が僕に声を掛けた。
「起こしちゃったか。ごめん」
「いや、良いよ。キーボードを叩く音、嫌いじゃ無いから」
「まだ五時過ぎだよ。ベッド、使って」
静華はタオルケットをぶら下げて、「お言葉に甘えます」と良いながら僕のベッドに寝転んだ。枕に顔を埋めた静華が「蒼依の香りがする」と呟く。
「そりゃ、僕のベッドだからね。あんまり嗅がないで」
「はぁーい」
まだ寝起きなのだろう。静華の声は蕩けている。
僕は再び静華に背を向け、パソコンと向き合った。もう少しで完成に近づく。ここが一番の正念場だ。一度完成してしまえば、あとは推敲を繰り返すだけだ。
僕が指先をキーボードに乗せ、軽快なテンポで弾き始めると、
「蒼依はさぁ」
と背後から声が聴こえた。
「なに?」
僕は指を止めず、パソコンに視線を預けたまま、静華の声に耳を傾ける。
「もし、俺と蒼依の立場が反対だったら、蒼依は俺のこと、好きになってた?」
何を意味する質問なのかよく分からなかった。単に性的志向の面で僕が静華に恋をするのかを問われたのかと一瞬疑ったが、熟考すると、そんな安易な質問ではないと思った。
「多分、なれないよ」
嘘は何一つ無かった。
僕の答えを聞いた静華が、寝返りを打つのが、シーツが擦れる音で分かった。
「そっかぁ。俺、フラれちゃったね」
どういう風に静華が受け取ったのか、僕には図りかねる。しかし、僕が口に出して伝えたように、全ての立場が逆だとすれば、きっと僕は、静華のことを好きにはなれないのだ。
「でも、俺はそれでも蒼依が好きだよ」
静華の声が、部屋中を乱反射して僕の身体に擦り傷をつけて飛び回っている。僕が「ありがとう」と返すと、むふふと笑いながら静華は再び寝息を立て始めた。
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