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16
年が明け、途端に空気は鋭利な冷たさを纏うようになった。一足先に大船駅へ到着した僕は、悴む手を擦り合せて、顧問と部長と静華の到着を待つ。改札を挟んで人が行き交う様子は、あの日と何も変わりはしない。
ブレザーとワイシャツの間に、菜々子が誕生日プレゼントでくれた藍色のカーディガンを着込んでいる。カーディガン分だけ身体は厚みを増している。それでも寒さが凌駕し、電車から降りて数十分で僕の吐息は白を失った。皆早く来ないかな、身体はそう言っているのに、心は、皆が集まることを望んではいないようで不思議だった。
集合予定時刻から五分遅れて、部長、顧問、静華の順に到着し、僕ら男四人は久門国際学園へ向かうバスへと乗り込んだ。車内では、顧問と部長が僕と静華の前に座っており、「またあいつらはサボりか」と無断欠席した部員たちのことを、部長が顧問に責められ続けていた。窓際に座った静華は、走るバスの中から、ずっと外の景色に視線をやっている。窓ガラスが曇っていて、はっきりとした景色なんか見えていないはずなのに、静華は何かを探す横顔で、バスが停車するまでの十五分間、一言も発さずに、ただ揺られ続けていた。そんな様子を見ていた僕は、心底、今日という日が、一生来なければいいと考えていたことを思い出した。
ホールに到着して、僕らは授賞式の会場入りを済ませた。席に着くとすぐに、静華は受付で手渡された『綴』を読み始めた。静華につられて、僕も小説部門の受賞者一覧ページを開く。
〔小説部門〕橋岡恭三郎 選
〈最優秀賞〉
『禁断』
麻生桜美
横浜ソーシャルフロンティア高校2年
〈準優秀賞〉
『フラン・スラン』
佐波繭子
季湖女学院高校2年
『渋谷駅』
國政えりな
久門国際学園高校3年
〈佳作一席(高文連会長賞)〉
『拝啓、偽りの母へ』
冨手夏美
県立大葉高校2年
『夜汽車と彼女と』
柊陽介
県立安田浜高校1年
『感情異入』
立花蒼依
彩明学園相模原高校2年
『妖精さま』
山川明日菜
白石女学院高等部3年
『ハンバーガー』
阿久井哲也
久門国際学園高校3年
〈佳作二席〉
『掃き溜めの卵』
宇都宮紘大
県立大葉高校3年
『よるをしらないぼくたちは』
伊野静華
彩明学園相模原高校2年
『貴方を嫌う6つの理由』
清水晴香
白石女学院高等部2年
『質問B』
春日拓真
横浜ソーシャルフロンティア高校3年
『荒原の付き人』
前園修治
横浜ソーシャルフロンティア高校1年
『リキッドに染まって』
柏木由美佳
久門国際学園高校2年
『惡』
中野小枝
久門国際学園高校2年
『Gallery』
萩原徹
久門国際学園高校1年
『マウントマン』
間宮智司
久門国際学園高校1年
『十一月二十三日』
山口千晶
久門国際学園高校1年
受賞者一覧には、見慣れた高校名が並んでいる。僕は、できる限り受賞順位に意識を向けないようにして、ただひたすら、掲載順に作品を読み進めた。
かなりの速読を無意識に行っていたせいか、ページを捲ると、静華の書いた『よるをしらないぼくたちは』というタイトルが僕の目の前に現れた。僕は、その小説を読み飛ばした。読んだことがあるからではない。今はただ、読みたいと思えなかったからだ。
程なくして、照明が落ち、対照的に檀上は華やかにライトアップされ、文字を追いにくい仄暗さが僕らを包む。同じだ。そこまでは同じだ。眩い光に照らされた壇上に、静華が座っていないのも同じ。同じなのに、違うんだ。だって、あの中心に一番近い席には、強烈な印象を僕へ与えた金髪の男が、さも当たり前のように腰を下ろしている。そして、僕の隣には静華が座っている。薄闇の中で、肘掛けで頬杖をつきながら、檀上をじっと眺めている静華の姿がある。
授賞式中、静華と言葉を交わすことは一度もなかった。麻生は今回も饒舌に、創作への喜びと苦悩を語り上げていた。今日ばかりは、僕も麻生の話に上手く耳を傾けることができないでいた。何も言わない静華を見つめる。才能は、きっと平等ではないのだと知った。
*
顧問は前回同様、式が終わると足早にバスへ乗り込み、久門国際学園を去っていった。用がない僕らもすぐに帰ろうとしたが、「他校の部長に挨拶してくるからちょっと待っててくれ」と部長に言われ、何処か居場所に困った僕と静華は、久門国際学園の敷地内をふらふらと歩いていた。
行く宛もない僕らは、ただ敷地内をぐるぐると回り続ける。その間に、静華はいつも以上にスマートフォンを癖のように開いていた。ブレザーのポケットからスマートフォンを取り出して、何かを確認したらすぐに仕舞う。落ち着きのない静華に僕も掛ける言葉を見失って、ただ、止めることを恐れただけの足を動かし続けていた。
一周して、再びホール出入口付近の人だかりがある場所まで歩いてきた。すると、前方から、乾いた空の太陽に燦燦と照らされ、派手が引き立った金髪が僕らの元へ歩いてくる。
「おい、探したぞ」
銀フレームの眼鏡の奥で光る鋭い視線。ホール内ではわからなかったが、麻生の頭頂部は、少し黒髪が混じり始めている。
「麻生くん、久しぶり」
静華が何も言わないから、僕は笑顔を作って麻生に声を掛ける。しかし、麻生は僕に見向きもせず、静華の前に立ち塞がった。
「伊野」
「なあに」
麻生の声色から感じ取れるのは、何かしらの腹立たしさを持ってこの場に現れたということだ。そして、それと対をなすように、静華の声はいつもよりも甘ったるい。語尾もわざと緩くさせている。
「神奈川県高等学校文化連盟文芸部門の加盟校は総勢何校だ」
「三十一校だねぇ」
「そのうち、小説部門に上位入賞常連校はせいぜい何校だ」
「五、六校かなぁ」
「なら、その中で今後俺を超える逸材は誰だ」
「そんなん沢山いるよ、麻生は自信家過ぎやしないかなぁ」
「俺にはわからないんだ。伊野が教えてくれ」
「んー。学年とか卒業とか考えず、実力だけで俺が麻生に勝てそうって思うのは、超強豪久門国際学園の國政さんか阿久井さん。絶対女王白石女学院の山川さん、最近勢力を伸ばし始めた大葉高校の冨手ちゃん。あとは、エース引っ提げてる季湖女学院の佐波ちゃんと安田浜高校の柊あたりも固いね。あ、麻生んとこの一年生、前園くんもなかなか良い作品書くから、もしかしたらがあるかもね。まあ、皆入賞、入選常連だからねぇ」
「なるほどな。ただ、まだ残っているはずだろ。俺を超えることが可能な逸材」
「あー、いた」
「教えてくれ」
「彩明学園相模原高校の立花蒼依。彼なら一瞬で麻生なんか超えちゃうかもね」
静華が僕の名前を言い終えた瞬間、麻生は静華の胸倉を勢いよく掴み掛った。ネクタイごと引き寄せられ、静華の身体は大きく揺れる。
「なにしてんのさ、麻生。最優秀受賞者が暴力沙汰はまずいんじゃないの」
「お前も停学貰ってただろ。同類だ。気にするほどのことじゃねえよ」
静華の煽るような態度に、麻生の怒りが沸々と上昇していくのがわかる。止めなくてはいけないのに、その迫力に気圧されて、僕は動けずにいる。
「伊野、俺は思うんだ」
「なにを」
「高校文芸、特にこの神奈川高文連は、結局力を入れてる高校だけが入賞を掻っ攫うばかりで、ほぼ出来レースなんじゃねえかって。俺の高校だって、久門国際に続く入賞常連校だ。大学から講師を呼んで、月に一度、執筆口座を開講するぐらい部活に力を注いでる。加盟校三十一校のうち、半分は高文連の中でも幽霊のような存在になっている。適当な作品だけを提出し、名ばかりの文芸を行ってやがる。そんなゴミみたいな環境の中で、俺の期待に応えてくれる作品なんて存在しねえと思ってた。だけどな、俺にはお前がいたんだ。一年前の冬、俺とお前が二人で準優秀取って、〔W一年準優秀〕って『綴』のコラムページで囃し立てられたあの日から、俺はお前のことだけをライバル視してきた。ご都合主義の作品に満ちた小説ばかりの高校文芸の闇に、お前の光は埋もれなかった。俺は嬉しかったんだ。俺とは違う武器を持って、俺と対等、いや、それ以上に渡り合える奴がいてくれることが。それなのに、お前は佳作二席なんかに落ちぶれやがった。どうしてだ」
「佳作二席を悪く言わないでよ」
「とぼけるな!」
麻生の怒声が響き、周囲の関心がこちらへ向き始める。何処からか「あれ、神の麻生じゃね」という声が聴こえてきた。麻生の手には先ほどよりも強い力が込められている。
「ねえ、麻生。俺、お前にそんな怒られることしたかなぁ」
「佳作二席が悪いんじゃない。俺は、お前が書き上げた『よるをしらないぼくたちは』が許せないんだ」
「そっかぁ。麻生の趣味には合わなかったんだね。残念」
「そうじゃないだろ。伊野、お前は自分の武器を知ってるか?」
「さあね」
「なら教えてやる。繊細な文章と、読者の期待を鮮やかに裏切る展開と人間味溢れるキャラクター。その三つを上手く使いこなして、本来形容しがたい人間の負の部分を書き上げる。俺にはない武器を、お前は数えきれぬほど持っている」
「へえ、俺ってそんな武器、持ってたんだ」
終始おどけて見せる静華に、さすがの僕も違和感を覚え始めていた。
「お前はそれを今作で全て捨てた。入れ込みやすい平凡な主人公、エンターテイメント小説でよくある構成とオチ、苦しくなったタイミングで追加したであろう、物語を破綻させるデウス・エクス・マキナ(話を繋ぐ為に、作者の都合に合わせた展開へ持ち込むこと)的展開。そんな作品を書いても、自分が評価されると思ったのか。自惚れだ。お前は、あのスタイルを貫いたから評価されたんだ。挑戦などという綺麗事で片づけるなよ。無謀なだけだ。技術もセンスも感じられない。一体お前が何をしたかったのか、俺には全く理解できないんだ」
「俺は書きたいから書いただけだよ。そんな熱くなるなって。所詮高校の部活でしょうが」
「黙れ。もし、お前がエンターテイメント小説という土台で勝負するのなら、お前はそこにいる立花蒼依にすら負けてんだ。あいつは腕を上げた。登場人物のリアリティも増し、感情というテーマも扱いきれている。そして、いつ覚えたのか知らねえが、作中のミスリードだって完璧に駆使している。高校文芸じゃなければ、佳作一席で収まらない器かもしれないと思うぐらいにな」
「だから、蒼依はすごいって言っ……」
「お前は立花蒼依よりも、才能と時間を上手く使えてない。お前は葛藤を買い忘れた。お前の武器なら何処までも飛べると思ってたが、全部無駄にしたな、伊野。がっかりだよ」
「あ?」
麻生の言葉が引き金となり、静華の目つきがぎろりと変わったのが分かった。静華は掴まれていた胸倉に手を添え、麻生の手首をかなり強く締め返している。静華の身体からゆっくりと離れていく麻生の手。麻生は、何故か悲しそうな瞳で静華を見つめている。
「おい、麻生」
「なんだ」
「お前、殺されたいの?」
あんなにも尖った静華の視線を僕は初めて見た。静華の中に潜む危険な部分が全て表象されているようで、僕はただ怖かった。今にも人を殺すような目つき。剣呑な雰囲気が周囲を包み込む。どちらかの一言で、取り返しのつかないことになる。僕が止めなければいけない。そう思い、二人の間に飛び込もうとしたとき、
「おい! てめえら何やってんだ! 離れろ!」
と、部長が大声を荒げて二人の身体を勢いよく突き離した。
「伊野! お前何してんだ! こんな場所で! 麻生くんも! 最優秀まで取っておいて暴力なんか洒落になんないだろ! 早く自分の高校のところへ戻れ!」
部長が介入してきたことで、状況は最悪の事態を招く前に沈静化された。麻生は部長に「すんませんでした」と頭を下げ、すぐにこの場を離れていった。麻生の背中が見えなくなったあたりで、静華は呼吸を荒くしながら、アスファルトに膝をついて項垂れた。立ち上がれない静華の背中を摩る。額には、一月とは思えぬほどの汗を滲ませている。僕は、その汗が麻生に恐れ戦き流れているものではないと分かった。「大丈夫、静華」と声を掛けたときに、静華と久しぶりに目が合った。前髪の隙間から薄っすらと覗けた眼光は、未だ麻生を刺し違えても狙うような鋭さを保ち続けていた。
*
麻生との衝突をきっかけに、静華は部活動へ顔を出さなくなった。
無断欠席が一週間を超えた頃、静華は僕に「俺はもう小説書くの辞めたからさ」と、顧問宛の退部届を手渡してきた。退部届を握りながら、静華にその理由を問い詰めると、「俺さ、演劇部からのオファー、受けることにしたよ。若林さんも卒業しちゃうし、脚本書ける人間がいなくなっちゃうからね。あの人が作り上げた彩明学園演劇部、俺が引き継ごうかなって。あ、役者はやらないけどね。だから、文芸部は蒼依に任せるよ」と言った。
その言葉を聞いた僕は、何も言わずにその場を離れ、静華に渡された退部届を躊躇なく顧問へ差し出した。
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