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18
職員室へ鍵を返す際、たまたま演劇部の若林さんと鉢合わせた。
爽やかな笑顔で会釈をされた僕は、一瞬、周囲を見渡して静華の存在がないことを確認し、合わせて頭を軽く下げた。
「あの」
僕は意識よりも先に、若林さんを呼び止めていた。
「どうしたの」
「お時間あれば、話を聞かせて欲しいんです。静華のことについて」
「参ったな。これから伊野くんとご飯行く予定だったから、昇降口で伊野くんを待たせているんだけど」
「だったら静華も一緒で良いです。五分だけ、お願いします」
*
昇降口前のピロティで僕らは背の低い丸椅子に腰を下ろしている。僕の対面には、静華と若林さんが並んでいる。柔らかな表情で僕を見る若林さんに対して、静華とは、目線すら合わない。二人ともルックスが整っているので、こうして並ぶと、お似合い、という感じがした。
「それで、何が聞きたい?」
若林さんが早々に本題を切り出す。僕は一度居直って、内容に寄り道を挟み込んだ。
「若林さんは、卒業後も演劇を続けるんですか」
「もちろんだよ。今、研修生として通っている劇団への、正式入団が決まっているんだ」
「プロの役者になるんですね。すごいや」
「プロって。まあ、ありがとう。ただもう少しだけ、この演劇部を高い場所へ連れて行ってあげたかったなって悔しい気持ちはあるよ。だから、卒業後もサポート役のOBとして、部活には顔を出そうと思っているんだ」
「熱心ですね」
「熱心なのは、恥ずかしいことかい?」
「いいえ、ちっとも」
「よかった。だから、演劇部の躍進を考えると、こうして伊野くんが俺に協力してくれると申し出てくれたことは本当に嬉しいことなんだ。伊野くんの作品は演劇でも映える。顔立ちも良いから、よければ役者もやって欲しいんだけどね」
「だから、俺は役者はやらないですよ。セリフ覚えられないし」
静華が会話にいきなり飛び込んでくる。久しぶりに静華の声を聴いた気がする。
「伊野くんをスカウトするのは苦労したんだよ。彼、何が沸点かよく分からないから。一度俺もミスをして、何発か強烈なの、貰っているからね」
若林さんがわざとらしく頬っぺたを手で押さえながら、静華の方を見て「いてて」と呟いた。それに対し静華が、「もう痛くないでしょ。煽らないでください」と笑いながら返す。僕は、そんな二人の仲睦ましい様子が気に食わない。僕の心の中では、嫉妬に近い感情が暴れ回っているのかもしれない。
「あの」
二人の円満な空気を壊すナイフのような「あの」を、僕は彼らに突き立てる。
「どうしたんだい?」
「若林さんは、静華の才能を殺す気ですか」
「えっ?」
僕の問いに、瞬間、若林さんの目がぎらりとこちらを睨みつける。
「静華は脚本を書くために生きていてはいけない。このままじゃ、彼の作品を、彼の才能すら殺しかねない。若林さん、あなた、責任とれるんですか」
「殺すって、物騒だな」
若林さんが顎を下げて、すんと鼻で笑う。
「僕は本気で言っていますよ。若林さんが本当に静華のことを考えてあげるのなら、脚本なんて書かせちゃだめだ。静華を道具として使わないでください」
「おーい。蒼依さ、さすがにそんな言い方は失礼じゃ」
僕を制止させるような静華の言葉が、若林さんに触れぬよう、曲線を描いて僕に飛んでくる。しかし、僕のブレーキはもうとっくに壊れてしまっているんだ。
「静華は黙ってくれ。今僕は、若林さんに訊いてる」
「こらこら。二人が喧嘩する必要はないでしょうに。立花くんも、あんまり伊野くんを挑発しないで」
「そんなことはしてません」
「ああ、そう。なら構わないのだけど」
若林さんは落ち着いた表情で立ち上がって、静華の背後に回り込んだ。そして、静華の頭上に手を乗せて、軽く撫でながら話し始める。静華は、そっぽを向いたまま動じない。
「君、伊野くんの作品にいくらの価値を付ける?」
「価値?」
「立花くんは早とちりをしている。まるで、才能は目に見えないとものだと思っていそうな口ぶりだね。あのね、才能っていうのは、金銭的価値に繋がるものを言うんだよ。努力とか、天性とか、そういう曖昧で抽象的なものじゃない。立花くんは、伊野くんの才能を認めているんだよね。それなのにどうして、小説を書きたがらない伊野くんに未だ小説を書かせようとするんだ? 君も書くなら分かるだろう? 俺だって多少は書くから分かっているつもりだけど、書きたくないと思って書いた作品のクオリティが高いわけないだろう。このまま伊野くんに小説を書かせたら、それこそ彼の才能を殺すことになる。才能はね、飛ぶ場所が決まっているんだ。その場所を見つけて、上手くタイミングを合わせれば、何処へだって羽ばたける。しかし、それは逆も然りだ。間違え続ければ、二度と飛べない羽になる。俺は伊野くんに、演劇の脚本という新しい場所を提供した。才能を殺さない為に、そして、いずれ金銭的価値が付与されて、才能が目視出来る程顕在化する時の為にね。だから、立花くんの言っていることは大きく的を外れている。伊野くんを認めるからこそ、伊野くんの飛びやすい場所を探してあげる。ライバルを失った悲しみで伊野くんに固執するのは分かるけど、その時点で君は、もう伊野くんの背中しか見えてないんじゃないかな」
「金にならなきゃいけないんですか」
「君は何も教えて貰ってないんだね」
「どういう意味ですか」
「才能に一番近い言葉は資質だよ。伊野くんには、文章を書く資質がある。その資質をどう生かしていくか、今は模索中だ。何故、君が伊野くんの人生を決める? 君は何も知らないからそんなことが言えるんだ」
静華が若林さんの手を払い除けて立ち上がった。
「若林さん、ストップで。そこまで俺のことかばわなくて良いです。かばって貰う筋合い、俺には無いですから」
「そうか。まあ、良いよ。全ては伊野くんが決めることだからね。俺が伊野くんの決定権を剥奪してしまっては、それこそ立花くんと同じになってしまう。伊野くんも、どうして大事なことを彼に話さないままにしたのかな。よくないと思うよ、それ」
「それは俺の責任ですから」
「立花くんに忠告しておくよ。君、他人を理解する前に、よく自分を理解するべきだ。自分のことが何一つ分かっていない君は、誰よりも害悪で、気づかぬうちに大切な人たちを傷つけることになる。悪い伊野くん、今日は食事に行く気分にはなれないから帰るよ。脚本の件、完成したら連絡してくれ」
若林さんは僕へすぐさま答えが出ない「問い」と、計り知れぬ気まずさだけを残して、そのまま昇降口の先へと消えていった。僕は俯いて、強く握られた右手の拳を左の手のひらで包み込む。どこかに力を入れて踏ん張らなければ、今にも泣きだしそうだったのだ。
「蒼依、場所変えよっか。ここじゃアレだからさ」
*
今夜の公園は、あの日と違う匂いがした。
シーソーは、浮いたり下がったりを繰り返すから楽しいのであって、動かなければただの座り心地の悪い椅子だ。そして、浮いたり下がったりを繰り返すには、対面に座る相手の協力がいる。お互いが言葉なく意思疎通をし、お互いの為に体重を足裏と腰を使って調整し、お互いが演出し合う気持ちを持つことで、シーソーは成り立っている。
それなのに、静華は僕を浮かしたまま、一切腰を上げようとはしない。おかげで、僕は不可抗力的に静華を見下ろさなければいけない。地面から両足が離れて、もう数分は経つ。静華はその低い位置から僕を見上げて「眩しいなぁ、蒼依は」なんて冗談を言うばかりだ。
もう冬だ。一八時を過ぎれば空は青黒く染まり、星や月を引き立てる役回りへと変わる。僕と静華の背後には、街灯が一本ずつ立っている。眩しいのは、僕ではなくその街灯の明かりだ。きっと僕の顔なんて、逆光で少しも見えてはいないはずだ。
静華は街灯に照らされ、今日に実によく影を伸ばしている。闇の濃度が深い、はっきりとした影だ。僕の方は、地上から浮いているため、影もぼやけている。結局、そうなのだ。
「なんで、小説書かないの」
僕を見上げた静華は笑っている。今もまだ、静華の表情は読めない。
「若林さんの脚本手伝うからかなぁ」
「それは、小説を書かなくなったから始めただけでしょ。本当の理由は」
「なんだろうねぇ」
「麻生に負けたから?」
「さあ」
「僕に負けたから?」
「さあ」
「佳作二席なんか格好悪いから?」
「さあ」
「自分の新しい挑戦が、世に認められなかったから?」
「さあ」
「静華、もうそうやって誤魔化さないでよ」
「ごめんなぁ、蒼依。俺、こうやって生きてきちゃったからさ。そういう性格なんだわ」
「そんな性格、ちっとも素敵じゃない」
「んなこと、知ってるよ」
「じゃあ、どうして」
「蒼依、ごめんなぁ。お前の憧れで、いてあげられなくて」
静華の言葉を聞いた僕は、心臓を引き裂かれるような痛みに襲われた。骨と肉が軋轢を起こし、痛い痛いと叫んでいる気がする。血を伴わずとも、人はここまで、傷つくことが出来るのだと知った。
ぽつぽつと、シーソー板の上に水滴が落ちる。ゆっくりと広がっていく斑点に、雨が降り始めたのかと思った。だけど、違ったんだ。僕は、今の一言で、ずっと解けぬよう結び直し続けていた太い糸が、ぷちんと千切れてしまったんだ。
「泣かないでよ。蒼依」
僕だって、泣きたくて泣いているわけじゃない。
「静華は、どうして書かないって選択肢を取ったんだ」
「……俺はさ、」
「書きなよ!」
千切れた糸の先端は、花が咲いたようにぱっくりと開いている。もう、結び直せないと理解すれば、僕は、手繰り寄せることすら放棄できてしまう。
「一度評価されなかったからって、狡いじゃないか。君は、静華は十分まだ戦えるのに。たった一度の敗北で、何でそんな簡単に逃げ出せるんだよ。僕は、僕はいくら逃げ出したくても書かなきゃいけないんだ。僕には理由があるんだ。使命があるんだ。大切な人を外へ連れ出すっていう大事な大事な約束があるんだ。静華の傍にいると、永遠と僕はその約束を果たせない気がして、ずっと劣等感ばかり覚えて、それでも静華に憧れて、いつか、いつかって。なのに、静華は約束も何もないから、そうやって簡単に逃げ出せるんだ。だったら分けてくれよ。僕に、君の半分を分けてくれよ。菜々子を救いたい。僕は、早く神奈川県で一位にならなきゃいけないのに、菜々子が待ってるから、僕は、」
「勝手なことばっかりだね。今日の蒼依は」
僕はグリップから手を離し、涙を拭う。酸化した金属の、赤っぽい香りがふわっと漂う。僕は、一年前から何も変わってはいないのだ。
「人を理由に書いて、自分が最優秀を勝ち取れないことを嘆いて、俺が小説書かなくなったことすら原因みたいに言い出して。蒼依、俺は思うんだ。誰かの為に書くなんて、本気で書きたい人たちからすれば迷惑なんじゃないかなって。素敵な約束だけど、俺はそんなことで書いてる蒼依を好きにはなれないよ」
年季の入った木製のシーソー板が涙を吸収して、集まった斑点は一つの大きな楕円を描く。喉に声が詰まって、上手く吐き出せない。僕はどうすればよかったのだろうか。
「今更そんなこと言うなよ……」
「今更?」
「好きにはなれないって、静華は僕のことが好きなんだろ!」
「ああ」
「僕のことが好きなら、僕の書く理由だって受け入れろよ!」
「ごめん、蒼依」
「なんだよ」
「ずっと黙ってたことがあるんだけど、俺、同性愛者なんかじゃないんだ。これは、百・ゼロで俺が悪いよ。だから謝る」
暗闇の中で、糸を完全に見失ったような気がした。
「何言ってんだ……そんな冗談、今は通用するわけな」
「普通に考えてさ、おかしいと思わなかったの。いきなり出逢って、いきなりカミングアウト。最初はおちょくろうと思って言ったんだけど、蒼依は素直で、すぐ信じ込んじゃうからさ。いつの間にか、嘘でした~なんて言えなくなってた。でも、もうきっと蒼依と俺はこれで最後だから、ようやく言える。俺は蒼依のこと、本当にただの友達でしかないよ。だから、ただの友達にそんな偉そうなこと言われたって、はい書きます、なんて言うわけない。自惚れないで」
「だって、中学生の時の初体験の話は」
「小説書く人間だよ? いくらだって作り話なんか浮かぶよ。それに、咄嗟に話したから、今じゃ正確にどんな話をしたかなんて思い出せない。バカ真面目だよなぁ、蒼依はさ」
「ふざけるなって……」
「普通に、女の子が好きだよ、俺」
「普通ってなんだよ!」
「だから、蒼依と同じように」
「理解されないから普通じゃないみたいな言い方するな! 静華が僕に嘘をついてたことなんてどうだっていい! だけど理解されないことが普通じゃないみたいな言い方だけはしないでくれ!」
僕の声が夜に駆けて、この広大な夜空へと呑まれていく。
「やっぱり蒼依は優しいよ。人のこと殴れちゃう俺とは違うなぁ」
静華がゆっくりと腰を上げて、僕の両足は久しぶりに地面を捉えた。
「それと」
僕らの会話は、いつだってこの夜空に溶け出してしまう。そして、取り返しが付かないほど高い所まで上っていった時に、後悔として再び僕らに降りかかる。
「俺は蒼依のことが、一番よくわからないままだったよ」
静華の言葉を皮切りに、夜空は更に雲をまとって、小粒の雨を降らせてきた。ぽつり、ぽつり。不安定なバランスで僕の身体を弾く雨が、やけに心地悪かった。
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