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 茜色の斜陽がシーソーに揺られる僕らを差して、砂の上に不格好な影を生んだ。くっきりと伸びた二つの影は、支点部を境にぎっこんばったんと形を変えている。  夏の暑さも落ち着きを見せ始めた秋口。僕らはブレザーを背の低い鉄棒にぶら下げて、ワイシャツの袖を捲っている。他愛も無い言葉を交わしながら、相手の重心によって浮いたり下がったりを繰り返していた。 「停学?」  静華(しずか)が放った言葉を、僕は反復してそのまま静華へ投げ返す。頭の中で発生した疑問符が前のめりになって、僕の身体はシーソー板によって持ち上げられる。その刹那、薄汚れた青塗装の木製シーソーが、二人の間に大袈裟な傾きを作った。がくん。僕を見上げる上目遣いの静華と目が合った。ゆっくりと、シーソーは水平に戻っていく。 「ん、鬱陶しい先輩ぶん殴ったら、停学貰った」  まるで子どもが「お母さんの家事を手伝ったら、百円貰った」ことを報告するかのように、静華は過激な事実をさらりと述べる。話を上手く呑み込めずにいる僕をよそに、彼は自分の太股を台にして頬杖をついていた。鼈甲柄のお洒落な丸眼鏡を掛けた彼の瞳は、ブランコではしゃぐ二人の男子小学生を熟視している。 「理由は?」  僕の問いに、静華は口を尖らせる。 「しつこくつきまとわれたんだよ。勧誘ってやつ。俺は興味ないって逃げ回っても口説かれ続けてさ。呆れを通り越して、ついね」  静華を勧誘。真っ先に浮かんだのは、モデルや俳優業の類いだ。実際に何の勧誘を受けたのかは、ご立腹の様子からして、詮索すべきではなさそうだ。 「つまり、またその綺麗な顔立ちが原因だったってわけね」 「『また』って言うなよ。それに蒼依(あおい)、俺を弄ぶような台詞は禁止ね?」  静華の表情はいつも複雑だった。喜怒哀楽の他に明確な別の感情が含まれているというよりは、単純に、感情が入り乱れていると形容するのが正しい。笑顔一つとっても、ただ笑っているようには見えず、その裏には計り知れないほどの怒りを孕んでいそうに思えた。仏頂面の中にだって、途轍もない哀しみを訴えている影すら感じた。  複雑性の原因は、美しすぎる顔に由来しているのかもしれない。何処か虚な瞳は、長い睫毛とはっきりとした二重に支えられている。シャープな輪郭と、薄く淡いピンク色をした唇。そこに自然な高さを持つ鼻まで付与された完璧なルックスは、まるで人形のように整い尽くしていた。程よく色褪せた焦げ茶色の髪が、天然の軽い癖毛で遊び回っていることすら、静華の魅力を引き立たせている。彼の容姿に対しては、非の打ち所が無い。 「もう綺麗な顔とか俺に言うなよ。欲しいものが手に入らないんじゃ、無価値なもんだよ。どうせさ」 「そんなことはないでしょ」 「根拠と覚悟の足りない発言は、自分の首を絞めるよ」 「どういうこと」 「そんなことないとか言って思わせぶりな態度を見せるぐらいなら、もっとちゃんと俺のことを見てて欲しいなぁ」  しまった。会話の流れで、僕はうっかり静華の沼へと足を突っ込んでいた。  静華は、周りの人間と一線を画す存在だ。天真爛漫な性格と、日々の揉め事を参照すれば彼の人間性は一目瞭然である。しかし、この高校に通う生徒の中で、僕だけが知っている静華の側面がある。それが、彼の性的志向についてだ。  僕らが出逢ってすぐに、静華は僕へ己の性的志向にまつわる事情を打ち明けた。彼は俗に言う同性愛者で、生まれてこの方十七年、好意を寄せる人物は全て男性、という経験を持っている。何故、僕にそれほど大切な話をカミングアウトしてくれたのか訊けば、「好きになっちゃったから、距離感の掴み方が下手な俺の場合、いつかはバレると思って。先手必勝、ってやつだよ」と、あっけらかんとした顔で彼は言っていた。  ジェンダーにまつわる様々な社会学的視座が取り上げられ、それらを源泉とした示唆に富む発言や価値観が議論されるようになった現代。同性愛というものに対するマジョリティの偏見は年々薄まっている。  例えば、海外スターの世界。『ホワイトカラー』のマットボマーや、『ゴーストバスターズ』のケイト・マッキノンも自身がLGBTであることを公言している。著名人の告白により、活発化する市民運動。実際に、調査によってばらつきはあるようだが、日本人口におけるLGBTの割合は平均すると、少なく見積もっても百人に一人、高ければ十三人に一人は存在しているそうだ。  静華は、トランスジェンダーや性同一性障害とは違う。身体的性や性自認に流動的な部分はなく、自分は男性であるが、性的志向は男性に向くホモセクシュアリティ、いわゆるゲイに分類されている。  僕にとっては静華が初めて、身近に現われた性的少数者であり、しかも、静華は僕に好意があると明言している。新たな価値基準が当たり前になった時代でも、いざそれが自分と密接な関係を持ち始めると、現実味の無さが僕から自然性を奪うのだった。僕は「理解」という言葉で誤魔化し続けてきた時代遅れな感性を、彼と出逢ってからよく恥じるようになった。  彼は、僕に菜々子という女性の恋人がいることを知っており、更に言えば、僕の同性愛に対する認識の薄さにも勘付いている。ただ、静華の性格上、日常的強引な素振りを見せ、僕らの関係を恋愛に無理矢理変換することはしなかった。これまでも友達として、僕らは時間を共にしてきた。静華のフラットな姿勢に僕も安堵し、同じ部活動に所属する仲間、もしくは友達という枠組みを超えない。相棒色が強調されて、静華のジェンダー特性を忘れることも多々あった。だがしかし、こうして隙を見つけられると、僕は一瞬で足を掬われるのだ。 「僕には彼女がいるから」 「知ってるよ。ほら、俺は別に、浮気相手でもいいって言ってるでしょ」 「いや、浮気は良くないよ」 「あ、悪い子だ」静華が鼻をすんと鳴らし、俯きながら穏やかに微笑む。「今、浮気はダメだって正当な理由を盾にして、俺の熱視線から逃げようとしたでしょ。まあ、良いんだけどね。俺が今すぐ女の子を好きになることができないように、蒼依が今すぐ俺を好きになるなんて難しいのは分かってるからさ」  飄々と恥ずかしい台詞を言ってのけるのが静華だ。彼は、頭の中で考えたことをアウトプットするのが上手い。決して饒舌にふるっているわけではないのに、僕はいつだって、静華の言葉になら納得ができた。 「なんか、ごめん」視線を落として謝る。 「はっ。冗談だって。ちょっとからかっただけ。こういう話を持ち出すと、蒼依はすぐに口下手になるから可愛いんだよね」  静華と話していると、性的少数の話題になることも少なくはない。その度、図らずして苦手意識を覚えてしまう癖が僕にはあった。どこまで足を踏み入れていいのか、理解が足りないせいで怖じ気づいてしまう。失礼ではないか。偏見が残ってはいないか。そんなことばかり気にしていると、僕の喉と語彙は絞り上げられて発言のチャンスを失う。  尻込みする僕を見かねる静華。いつもの空気感。でも、彼と話すようになって僕にも性的少数への理解が萌芽を見せ始めている事実もあった。静華の性的志向は勿論、普段は世間へ隠している事情であるのは確かだ。ただ、彼は僕に対してのみ、二人の関係に何の距離も生んでしまわぬよう、その手の会話の終盤にはいつも軽い笑い話の香りを添えてくれる。きっと、静華自身は本当に僕のことが好きなのだろうけど、僕との間に、恋愛による大きな隔てが横たわってしまうことを危惧しているのだ。  一人の美青年との出逢いで、僕の世界は激しく振動する。それは、元あった場所にそれぞれの物を戻すことが困難になるほどの大揺れだった。 「話戻すけど、静華はその先輩のこと、殴るほどムカついたってこと?」  静華が人を殴る姿を想像できないわけではない。彼の中には、触れただけで指先をぱっくりと裂かれるような、鋭利な素質が宿っている。僕が静華と友達だから、日々の生活であまり気にはしなかった。それでも静華には、周囲を虜にする美しく端正な容姿と、時折人を全く寄せ付けなくなる濃厚な匂いが同居していた。 「儚さ」といえば美質になりそうだが、関わりを深めるほどに、静華に眠る「脆さ」みたいなものも顕在化してくるように思えた。透明で指紋一つない綺麗な硝子も、割れた途端に凶器へと変貌する。そんな感じだ。 「ムカついたっていうか、俺が一番腹立つことを言ってきたから殴っただけだよ。あ、ちなみにそいつ男ね。蒼依、さすがに勘違いしてないよね?」 「さすがにね。女の人に手を上げるような人間なら、僕はこうして君と放課後にシーソーなんかで遊んでないよ」 「そりゃあ、よかった」  静華の視線の先では、相も変わらず二つのブランコが大袈裟に揺れている。向かって右側の赤いキャップを被った小学生が立ち漕ぎをする。がははと笑い、振り子のように動く。一回転しそうな勢いで漕ぎ続ける少年を、憧れの眼差しで見つめる隣の少年。そこへ、三人目の小学生が息を荒げて走ってきた。呼吸を整えるより先に「ブランコ貸して」と少年は地団駄を踏む。二つのブランコを独占する彼らは、その少年に一切譲る気配すら見せないでいた。 「俺、悪い奴みたいになっちゃったよ」 「まあ、人を殴るのはどんな理由があっても悪いことだよ」 「なんか嫌だなぁ、それ」  乾いた笑いを零した静華は、おもむろにシーソーから飛び降りた。浮き上がっていた僕は、静華の重さを失って一気に落下し、尻に少しの反動を食らった。シーソーから降りた静華は、ブランコに乗れないでいた少年に何やら声をかけている。彼が少年の頭を優しく撫でると、少年は僕が片割れに乗るシーソーの方へ走ってきて「お兄ちゃん、一緒にシーソーしよ!」と元気よく叫んだ。 「俺、本当に悪い奴だと思う?」  微笑を浮かべたまま静華が再び僕の近くに歩み寄ってくる。僕は軽く腰を上げて、対面に少年を乗せる。力を制御し、シーソーが何度も傾き合うように演出してあげた。少年はきゃっきゃとはしゃいでいる。 「全く。静華は良い奴だよ」 「さすが。そう言ってくれるから、俺は蒼依が好きだなぁ」  日没の灯りが静華の横顔を照らし、その可憐さを細部まで僕に届けた。橙色に染まる彼の足下から伸びる影。僕のものとは異なって、やけに魅力を含んでいるように思えた。その影を踏んだら、何か罰が当たりそうな、神聖な気がした。  もう、彼と出逢ってかれこれ半年が過ぎようとしている。
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