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「アオくん、ごめんね」  桃色のバスタオルを首から下げた僕に向けて、会話の流れを遮るような「ごめんね」が、菜々子の口から唐突に零れた。 〔いや、なーこが悪いわけじゃないから。気にしないで〕  菜々子の部屋は、自分の部屋の次に落ち着く場所だ。僕が知っている物で溢れているし、何より、ここへ来れば必ず菜々子に会えるから。  僕は無意識に舌で頬の内側の傷を舐めてしまう。その度に、ちくりと痛む傷跡も、先ほど静華と話していた時には忘れかけていたものだ。  僕は菜々子へ、久しぶりに弱音を吐いた気がする。菜々子が事故に遭ってからは、どこか否定的な話を控える節が僕にはあって、こうやって若林さんや部長、静華の愚痴を菜々子へ話すことも、思い返せば初めてだったかもしれない。菜々子は、僕が一つ一つ丁寧に事情を説明するためにホワイトボードへ文字を書き写す時間も、しっかりと、聴く姿勢を保ってくれていた。「部長さんって努力が足りないんじゃないかなぁ」とか、「若林さん、実は性格悪そう」とか、文字がびっしりと並んだホワイトボードを見せる度、僕が欲しいリアクションを全て返してくれた。だけど、静華の話になった途端、菜々子は口を噤んだ。そして開いたと思えば、「アオくん、ごめんね」と謝ってきたのだ。 「私が、神奈川県で一番の賞取ってくるまで外に出られないとか言ったせいだよね」 〔違うよ。静華のことが単純に気に入らなくて、喧嘩しただけ〕 「そんなことないよ。だってアオくん、静華さんのこと大好きじゃんか」 〔仲は良かったけど、縁の切れ目ってあるだろうし〕 「切れてなんかない。アオくん、考え直そうよ」 〔いいよ。僕にはなーこがいるから。なーこがいれば、僕は書けるから〕 ──誰かの為に書くなんて、本気で書きたい人たちからすれば迷惑なんじゃないかなって。  静華はそう言ったけれど、最初から僕は、誰かの為にしか書けない人間だから。 「よくない」  空気の味が変わったことに気づいて、僕は強引にシフトを切り替えようとする。 〔どうしたのさ。ごめん、変な話したね。もうやめよう、静華の話なんか〕 「よくないよ、アオくん」 ──他人を理解する前に、よく自分を理解するべきだ。自分のことが何一つ分かっていない君は、誰よりも害悪で、気づかぬうちに大切な人たちを傷つけることになる。  どうして僕が自分のことを何もわかっていないように見えたのだろうか。 〔なーこ?〕 「絶対だめだって、アオくん」 ──伊野はお前と違ってそう言ってくれた。  僕と静華の何が違うのだろうか。 〔なんでなーこが泣いてるの〕 「だって私は、いつもいつも」 ──蒼依くんは、小説書くの、楽しい?  僕はどうして、小説を書くのか。 〔   〕 「いつもアオくんの邪魔ばっかりして」 ──書くことに命を賭ける僕らにも青春を行う機会が与えられているのです。  僕は本当に命を賭けて向き合っているのか。 〔   〕 「私はアオくんから、大切なものを奪い続けてるんだよ」  知っていたはずだ。菜々子が何を苦しんでいるか。菜々子が自分から小説の話題を僕へ切り出したことがあっただろうか。静華と三人で話したとき、菜々子はずっと僕のバンド時代の話をしていた。菜々子は、きっと僕が小説を書くことなんて、何一つ嬉しくなかったのだ。 「アオくん、聞いて欲しい」 〔   〕  菜々子の顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。そんな顔をさせてしまったのは、きっと僕だから。 「私が外に出られない理由は、全部私にあるんだ。事故に遭ったあの日、私は帰りを急いでて、信号がない横断歩道をちゃんと確認せずに飛び出して、車と衝突したの。私がしっかり確認していれば起きなかった事故なんだ。それで、私の耳が聴こえなくなったことで、アオくんは音楽を辞めたでしょう。私は続けて欲しかったけど、アオくんの決意は固くて、『菜々子が聴けないなら音楽をやる必要がない』とか言って、私の為に音楽を辞めたの。  でもね、私知ってるよ。アオくんが未だに歌うことが好きなこと。本当に辛いときは、押し入れに仕舞ったって言ってたギターを触ってしまうこと。この前、静華さんが私に話してくれたんだ。アオくんがお茶を汲みに行って二人きりになったときに、『蒼依は、歌が好きで、それよりも君のことが好きなんだ』って。正直、静華さんが話す前から私はずっと気づいていた。だって私たち、もう三年近く恋人なんだから、気づかないわけないよね。アオくんの音楽への未練。小さい頃から、歌うことが大好きだったもんね。だから、私は絶対そうなると思って、外へ出る条件に、アオくんが文芸を始めるタイミングで、神奈川県で一番、なんて無謀なことを言ったの。  私は、挫折して欲しかった。文芸なんか楽しくないから、私にかまわず音楽をやりたいと思って欲しかった。だけどアオくんは、努力を積み重ねてくれた。私の為に、一番大好きなものを自分の中で殺して、小説を書いてくれた。でもさ、私、耐えられないんだ。そうやって、私の為にって、悩んで、苦しんで、静華さんとも揉めて小説を書かれても、私も辛いよ。勝手なこと言うけど、私はきっと、どんなにアオくんが頑張ってくれても、外には出られないよ。私のせいで、また誰かが苦しむと思ったら、私は外を歩けない。私自身が何か変わるまでは、私は自分を許せないんだ。アオくん、私はアオくんの歌が好き。聴こえていなくても、アオくんが歌う曲が好きなの。私の為にこれ以上苦しみながら小説を書くぐらいなら」  僕はその口を無理矢理にでも塞ぎたくて、「言わないで」と俯きながら言ったが、菜々子には聴こえていなかった。 「縛り付けていたのは、ずっと私の方だったんだ。だからアオくん、別れよう」  菜々子が外へ出られないのは、自分の過ちを許せないからだと言った。しかし、それも全て僕のせいだった。僕が菜々子の事故をきっかけに、音楽を辞めなければ、菜々子は外へ出られたかもしれない。僕が一番好きだったことを捨てなければいけない選択を取ったことが、菜々子にとっては、何よりも辛いことだったのだろう。僕は勝手だ。誠が言ったように、勝手な奴だ。そして、こうして大切な人を苦しめるんだ。  様々な言葉が浮かんでは消え、菜々子へ伝える最適解を手繰り寄せようと足掻く。それでも、どれも違うような気がして、僕には上手く見つけられなかった。考えれば考えるほど、どつぼに嵌まった。こういう大切な時に限って、言葉は正しさを見失う。ならいっそ、僕は何もフィルターを通さない想いを、菜々子へ伝えるしかないのだ。 〔僕は自分の意志で音楽を辞めたんだよ。だからなーこは自分を責めないで〕  普段通り、文字を読み上げながら、ホワイトボードを菜々子へ見せる。 「私の事故が無ければ、音楽はずっと続ける気だったよね」 〔それでも僕は、今は文芸の世界で菜々子に褒めてもらえるよう努力してる〕 「でもそれは、妥協があるんでしょう。アオくん、私の為だけに書いてるんでしょ」 〔そうだけど、今は楽しいと思えるよ〕  字が段々と、雑になっていく。 「それが妥協なんだよ。私がいなければ、しなくて良かった」 〔妥協って言わないでくれ〕 「だってアオくん全然楽しそうに小説のこと話さないじゃんか。いつも私の為に賞取るから待っててくれって、そればっかりで」 〔だって僕にはそれが〕 「アオくんもういいよ。もう自由に生きてよ。やりたいことやってよ」 〔かってだよそれ〕  勝手だなんて、人に言える立場にはいないのに。 「勝手でも何でもいい。私のことなんか嫌いになって、忘れて、音楽で皆を笑顔にして欲しいの。私はそんなアオくんが好きだから」 〔ぼくはやめるってけついしたんだ〕 「そんな決意、アオくんには似合わないよ」 〔もうきめたんだ〕 「そんなこと、いつだって取り消せる、だから」 「ふざけたことばっかり言わないでくれよ!」  手を動かす前に、想いが先行して口から洩れた。 「僕がどんな想いで、どんな向き合い方で小説を書いていたか、全部菜々子の為だ!」  とまれ、とまれ、どうしてだ。とまってくれ。 「なんでそんなこと言うんだよ! 僕はずっと菜々子が好きで、菜々子が喜ぶ姿だけが僕の生き甲斐で! 音楽やってたら、心から楽しいと思って笑う菜々子がもう見れないと思ったから! だから辞めたんだ! 辞めたくなんてなかったよ!」  ああ、これが僕の心の声だったのか。これが静華の言っていたことだったのか。  悪寒が走り、背筋が凍る。俯いたまま言葉を吐き出し続ける僕は、もう理性を失いきっていたのだろう。菜々子の顔も見ず、固く握り拳を作り、太股に押しつけながら話した。 「小説なんて、あんな事故が起きなければ死んでも書かなかった! でもそれでも書いたんだ! 認めてくれよ! 僕を! 菜々子!」  白いままのホワイトボードが僕のひざ元に転がっている。菜々子は、どうにもやりきれないような顔で涙を流している。瞼から溢れ、美しく頬を伝う一本の線が、きらりと菜々子の顎から水滴となって零れ落ちた。 「ねえ、アオくん。ごめんね」  頭の中が真っ白になって、目の前の菜々子が霞んで見える。 「私、今アオくんがなんて言ってくれたか分からなかったの。だから、面倒臭いかもしれないけど、もう一度、ホワイトボードに書き出して欲しいな」  大切な人を、一番最低なやり方で傷つけたのは、この僕だ。 「アオくんの言いたいこと、聴いてあげられる耳じゃなくて、ごめんね」
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