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20
「もう冬なのにフラペチーノ?」と京香さんに正面で笑われながら、僕は太めのストローでフラペチーノを啜る。「好きなものに時期は関係無いんですよ」と言い返したが、京香さんは楽しげに笑い続けていた。
京香さんの目の前には、二月の新作であるストロベリー味のホット商品が湯気を立てている。外は寒いが、スターバックスの店内はコートを着たままでは汗ばむほどに暖房が効いている。フラペチーノが美味しく飲める温度でもある。
「私、また蒼依くんが音楽をやりたいって言ってくれて、正直とても嬉しい」
「正直過ぎますよ」なんて言ってはみたが、そもそも連絡したのは僕の方であって、その正直さに罪はない。
「彼女さんの耳が聴こえなくなって、仕方なく音楽を辞めていく蒼依くんを、本当は止めてあげたかった。だけど、私にはそんな資格がないとわかって、結局事実から逃げ出したから」
「資格」とは、僕の恋人であることを差しているのだろう。
「うん、資格。彼女さん、今も耳は全く聴こえないの?」
「はい。それと、つい先日、別れちゃいました」
京香さんの表情は変わらない。
「そっか」
僕はぶれ続けている。
「彼女、僕が音楽を辞めたせいで、家を出られなくなったんです。どうしてそんな考え方になってしまうのか、完全には理解出来ないままですけど、彼女は別れる前に、『私はアオくんから大切なものを奪い続けてる』って言ったんです。きっと、僕の知らないところで、彼女も苦しみ続けていたのかもしれません。彼女は、僕に文芸の世界で挫折を味わせて、音楽の道に戻ってもらうべく、『神奈川県で一番の賞を取ってきてくれたら外へ出る』なんて言ったんです。無謀ですよね。でも、僕はその使命があったから、踏ん張り続けられたのかも知れないんです。ただ一つ、書くことだけが彼女を幸せにすると勘違いしきっていなければ、僕は優れた彼氏だったのかもしれません。なんて、今は暢気に考えてますよ」
「じゃあ、挫折したから音楽に戻ってきたの? それとも恋人と別れたから?」
「両方です。どちらにせよ、不純な動機ですけど」
「蒼依くん、挫折したんだね。なんか意外だ」
「伊野静華っていう、相棒、みたいな奴がずっと傍にいたんです。神奈川県で最優秀賞を受賞した、僕が喉から手が出るほど欲しがったものを手に入れた男の背中だけを、この一年、見つめて走り続けました。何度だって挫折をしました。上手く書けなくなって、追い込まれて、でも、そんな時に決まって静華は、いつも楽しそうに、余裕そうに、書くことに何の抵抗も摩擦もないみたいにふるまってくれて、何より必ず僕の前を走っていてくれたから、僕は頑張れたんです。だけど、静華はたった一度の挫折で立ち止まりました。走り続けさえしていれば、誰も追いつけやしない才能を持っているのに、静華は立ち止まったんです。勿体ないですよね。他者と自分に圧倒的な差がついていないと、格好悪いと思ったんですかね。一回抜かされたらゲームオーバーだと考えていたんですかね。気づいたら僕の視界には、静華はもういなくなっていました」
「それ、静華くんが本当に立ち止まったって、何を根拠に言ってるの? 蒼依くんは」
心臓を掴まれるような熱視線を感じる。
「だって、僕の視界から消えたんだから、それは」
「それは、必死に走る静華くんを、必死に走る蒼依くんが追い抜いただけじゃないの?」
確信を突かれそうで、僕は身体をかわして京香さんの言葉を避ける。
「そんなことあるはずがないんです。才能の壁は越えられない、僕には静華ほどの才能が無いから、」
「まだそんなこと言ってるんだ」
京香さんがマグカップに優しく手を添える。白い肌の指先には、リアルアートのネイルが施されている。
「誠くんと相棒みたいな関係だった頃と、あなたは何も変わらない。どうしてか、自分には才能が無いと信じて疑わず、より高い場所へ行くための努力を惜しまない。私ね、蒼依くんって実は何かを頑張る為の動機、そこまで大切にしてないんじゃないかなって思う。最初は勿論わかりやすい動機が出発点なんだけど、走り出したら動機は所詮、動機でしか無くなって、気づけば、自分のためにいつも走ってる。誰も手に負えないくらいのスピードで走るから、蒼依くんにそのことを伝えてあげられる人はいないのかもしれないね。
才能はさ、人の優劣を表す言葉なのかもしれないけど、それだけじゃないと私は思う。才能は、人よりも少し優れていて、尚且つ頑張ることが苦ではないものに向き合い続けられる力のことなんじゃないかな。蒼依くんが小説を書くことを『きっと楽しくなります』って言ったように、あなたの少しだけ優れた部分が、段々とその努力によって伸び始め、静華くんすら追い抜いていたんだよ。分かるわけ無いよね。あなたは一度も振り返ってないんだから。相棒が立ち止まっているか、それとも追い越したかなんて」
僕が静華を追い抜いていたなんて、信じることが出来なかった。
僕は不思議と、後ろを向きたくなった。走り続けた道を振り返って眺める余裕なんて、僕には無かったから。おかしな人だと京香さんに思われるだろうけど、僕は京香さんから顔を逸らし、身体を捻って後ろを振り向いた。
「まーた、勝手なこと言ってんな、アオ」
振り返ると、緑色のマフラーに半分顔を埋めた誠が立っていた。
「なんで誠がここにいるの……?」
「なんでじゃねえだろっ!」
誠が僕の頭をがっちりと掴み、ブンブンと左右へ揺らす。こめかみに誠の指が入り込んで、じわじわと痛みを感じる。
「痛いんだけど」
「うっせぇよ。お前がまた歌いたいって京香さんに泣きつくから、力貸してやろうと思ったんだよ! しかし、ムカつく奴だよな、アオはさ。何処行っても評価されんだから。俺なんか十七年ドラムに命かけて、ようやくドラムが評価されてるぐらいだぜ? 他は全部捨てたから何も残っちゃいねえのによぉ」
ぶんぶん。誠は僕の頭を揺らし続ける。
「十七年って、生まれた時からドラム叩いてたの?」
「揚げ足取るなよ。覚えてねえけど、バブバブハイハット踏んでただろうよ、俺のことだしな」
「なにさ、バブバブハイハットって。バカすぎない?」
「うっせ」
はははと笑いながら、頭から手を離した誠は僕の隣へ腰を下ろした。
相変わらず、誠の前髪は長すぎる。僕は、指でその前髪を「ほんと、いつ見てもバンドマンだね」と言って、暖簾を攫うようにさっと撫でた。「なにすんだよきめえな」と僕の指をつまみながら、誠は白い歯を輝かせて笑う。
「ヤマさんは遅れてくるらしいっす。ったく、アオは京香さんにマジで感謝しろよな。あ、俺とヤマさんは京香さんのおっぱい一揉みでお前のこと許してやるんだからな」
「ねえ、私そんな約束してないけど」
僕と誠が同時に京香さんの胸へ視線をやったせいで、京香さんは両腕を使って、胸元にバッテンを描くよう腕で覆い隠した。
「見るな」
「ふぅ。あざっす」
「最悪。絶対触らせないから。本当に誠くんはきもい」
「ふぅ。あざっす。って、今アオも見てましたよ。アオはきもくないんすか?」
「蒼依くんは不可抗力」
「ひぇえ。マジうざいな、アオ」
僕のことを、親しみを持って「アオ」と呼び捨てにするのは誠ぐらいだ。菜々子だって「アオくん」と「くん」付けにしていたのに。誠は、いつだって人との距離が近い。包み隠さず感情を露わにしてくれるから、誠を心から嫌う人は少ない。
「誠は何も変わらないね」と言いたかったけれど、それはどこか偉そうな台詞のように思えて、僕は言葉をぐっと呑み込んだ。
「どうして、誠もヤマさんもわざわざ集まってくれているの?」
「んなもん考えれば分かるだろ。ここ、何処だと思ってんだ。今からスタジオ、入るんだよ」
「スタジオ」懐かしい響き。
「ヤマさんの計らいで、三月の初めに開催する卒業ライブに、お前を出させることにしたんだ」
「そんなことってありなの? 僕はもう、退部した身だし」
「ヤマさんが部長で良かったな。部員に文句言われても、ねじ伏せるって言ってたぜ。それに、どうせお前は文芸部辞めたらやることも無いんだろ? ヤマさんと京香さんは卒業しちゃうけど、俺はあと一年、軽音部なんだよ。だから、戻ってこい。再入部しようぜ」
一度裏切った僕を、誠はどうして受け入れてくれるのだろう。疑問は絶えず降りかかってくるけれど、きっと誠のことだ。裏なんて何一つ無い。
「俺はさ、わりとお前の歌声好きなんだぜ、ギターはあんま上手くねえけど」
誠が僕の飲みかけのフラペチーノに飛びついて、勢いよく残りを全て吸いきった。「うわぁ、頭きんきんすんな。冬なのにこんなん飲むなや」とか言いながら、誠は頭を抑えている。僕はそんな様子を見て、あろう事か、間接キスだ、と思った。一年前なら、絶対に男同士での間接キスなんて意識の範疇を外れていたはずなのに、おかしかった。
「あのね、蒼依くん。卒業ライブに出演するにあたって、私から一つ、条件があるの」
京香さんは「大事な話するから、誠くん黙っててね」と言い足して、人差し指をぴんと立て口元に近づけている。
「僕に可能な条件なら」
「きっとできるよ」
「なんですか」
「蒼依くんの一番悪い癖、直して欲しいの」
「悪い癖?」
「何か選択を迫られた時に、自分が選ばなかった方をそのままにしておく癖。きっと、あなたが考えている以上に、選ばれなかった方は淋しくて、傷ついてるはずだよ。だから、ちゃんと終わらせてきて欲しい。いるでしょ。この一年間、苦楽を共にした友達が蒼依くんには」
京香さんの瞳はいつにもまして真剣だった。僕がバンドメンバーを裏切った日、一番傷ついてくれたのは京香さんだった。その時の想いを、今、京香さんは静華を通して訴えかけている。僕は「分かりました」とだけ言って、京香さんへ深く頭を下げた。
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