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 初めて降り立つ南大沢の駅前は、アウトレットを備えていたり、有名飲食店が入り込んだ複合施設があったりと、住み良さそうな街の顔をしていた。ただ、静華の家は、ナビによると駅から徒歩で四十分もかかるらしい。バスで行った方が楽なのはわかりきっていたが、僕は物思いに耽ながら、歩いて向かうことを選んだ。  一歩一歩進む度、駅前の喧騒から段々と離れていき、閑静な住宅街が広がり始める。その宅地の中に埋もれた、灰色のアパートの三階が、顧問が教えてくれた住所が正しければ静華の家らしい。  どんな顔で会いに行けばいいのか分からないままだったが、それと同様、一度も行ったことのない他人の家へアポイントすら取らずに向かうには、どんな服装で会いに行けばいいのか分からなくなってしまった。そんな僕は、今日が土曜日だと理解した上で制服を着ている。靴もきっちりと学校指定のローファーを履いている。  今朝、服を選んでいる最中に、色々なことが浮かんだ。もしインターホンを押した際に、玄関の向こう側から顔を出すのが静華ではなく親御さんだった場合、身嗜みが整っていないとそれだけで印象が悪くなってしまいかねない。しかし、僕には整った身嗜みがどんな服装を指すのか分からない。ああだこうだ、時間の無い中考えていたら、僕は無意識にクローゼットから制服を取り出していた。  静華の家の前に到着して、ようやくその不自然さに気づいた。が、もう手遅れだ。静華が出てきて「なんで制服なんだよ」と笑われたら、学校へ寄ってきたとでも言おう。  なるべく足音を立てぬよう気を遣いながら、鉄製の折り返し階段を上っていく。足を止めた先には、グレーのドアがどすんと重々しく立ち塞がっている。インターホンへ視線を向け、頭の中で、目の前に記された〔三〇二〕が〔伊野〕と集合ポストに書いてあったことを思い出す。僕は一呼吸を置いて、恐る恐る指先をインターホンに押し当てた。  軽い音のチャイムが鳴ってすぐ、若い女性の声が聴こえた。「どちら様ですか」と問われた僕は、「静華くんの同級生で、立花と申します。今、静華くんはいらっしゃいますか」と辿々しくインターホン越しに声を発した。  数十秒後、がちゃりと鍵の回る音が鳴り、開かれたドアの隙間から二十代前半にみえる綺麗な女性が控えめに顔を出した。「あっ。ホンモノの立花くんだ。今、私以外誰もいないから、上がっていいよ」と上目遣いで女性は呟く。偽物の僕がいるのだろうかと疑問に思ったが、そんな退屈な質問ができるほど、僕は彼女のことを知らない。「お邪魔します」作法に気を遣いながら、僕は玄関へと上がる。  リビングへ案内され、言われるがままベージュ色のソファへと腰を下ろす。他人の家をじろじろと眺めるのは失礼な気がして、その女性を目の端に留めながら落ち着いた風を装っている。 「ごめんねえ。静華、今は散歩に行っちゃってるから、当分帰ってこないと思うよ。なんか会う約束でもしてたの? あ、お茶出すね。冷たいのでもいい?」 「いえ、連絡も無しに来てしまったので。ご迷惑おかけします。あ、冷たいので大丈夫です。ありがとうございます」  彼女は「アポ無しで凸とかやるねぇ」と言いながら、透明な細長いグラスへ冷えた麦茶を注いで、僕へ渡してくれた。冷たいグラスを受け取った僕は、お礼を言って一口お茶を飲んだ。冬なのに、とても美味しかった。緊張で喉も渇いていたのだろう。半分ほど注がれたお茶を、一気に飲み干してしまった。そんな僕の様子を見て、彼女は「うちの特製麦茶はうまいか」と笑っていた。 「あ、自己紹介してなかったね。私、静華の姉の伊野紗綾(さあや)です。今は大学生で二一歳だよ。立花くんの話は、もう散々あいつから聞かされてるから、実は君のこと、よく知ってるんだ」  大方検討はついていたけど、はっきりと「姉」と言われると、顔のパーツがどれも静華によくに似ていることに気づく。特に瞳。綺麗な瞳の形が、静華にそっくりだ。 「おかわりいる?」  紗綾さんが冷蔵庫を半開きにした状態で、持っている麦茶のボトルを僕へ掲げて見せた。僕は「いえ、お気遣いありがとうございます」とやけに固く返事をした。「また飲みたくなったらいつでも言いなさいな」と、紗綾さんは空っぽになった僕のグラスを受け取り、シンクへ音が鳴らないように置いた。第一印象からそうだが、紗綾さんは、笑顔を絶やさない人なんだなと思った。  紗綾さんが僕の隣に座り、その距離の近さに緊張が走った。女子大学生特有のものなのか、やけに甘い香りが紗綾さんからは漂っている。 「あの、静華はよく散歩に出かけるんですか」  両膝の上に手を置き、姿勢を正した僕へ、紗綾さんは優しい表情で言葉を返す。 「うん。あいつね、考え事するときは、決まって散歩に出かけるから」 「考え事って、小説の?」 「そうね。それ以外もあるだろうけど、大半は小説のことを考えてるはず」  紗綾さんの話を聞いて、背中に力が入っていくのを感じる。 「静華はじゃあ今日も小説のネタを考えに?」 「さあ。最近はもう書いてないらしくて、期末試験勉強の休憩とか言って出て行ったよ」  しかし、力んだ僕の背中も、紗綾さんの言葉で再び柔らかく歪んでしまう。 「……それ、僕のせいでもあります。静華が小説を書かなくなったのは、僕にも原因があって」 「じゃあ今日は、静華にごめんなさいしに来たんだ」 「まあ、つまり、そういうわけです」 「わざわざ土曜日に制服なんか着て」  紗綾さんが僕を指さして、悪戯に微笑んでいる。 「学校へ寄ってきたんです」  恥ずかしくて、僕は静華へ用意していた嘘を口走った。 「そっか。面白いね。でも、今は静華いないよ」 「待っていてもいいですか。彼が帰るまで」 「平気だよ。今日はお父さんとお母さん、どっちも夜遅くまで仕事だから」 「ありがとうございます」 「だけど、静華待ってる間暇だね。それまで何しよっか」 「とくに……」 「人生ゲームでもする?」 「二人でやっても面白くはないと思います」 「じゃあ人狼?」 「もはや二人じゃ出来なくないですか?」 「なら、おとなしく私と大喜利でもする?」 「遠慮しておきます。多分、地獄を見ますよ」 「冗談よ。ツッコミが早くて助かるわぁ」  紗綾さんは口元に手を当て、ぷぷぷと笑った。端整な顔立ちには似つかず、陽気な性格の人だ。どことなく、そんなところも静華に似ている。 「んじゃ、作戦会議しよっか」 「作戦会議?」 「余計なお世話だと思われそうだけど、せっかくあいつと真剣に話すつもりで来たなら、立花くんにも予備知識を与えておかないとね。何も知らないままあの偏屈野郎と話すのは、立花くんが可哀そうだから」 「何も知らない」なんて言われたって、僕はずっと、誰よりも静華を理解しているつもりだった。私生活や思惑が不透明な静華だったけれど、僕は彼のことを「知らない」なんて自覚したことはなかった。いや、もはや僕だけが静華を「知っている」、そう錯覚するぐらい、僕らはこの一年間、ずっと一緒だった。「何も知らないわけではない」と紗綾さんに強く言い返したい気持ちになったが、紗綾さんの瞳はやはり静華そっくりで、僕はその気持ちを抑えるしかなくなってしまう。 「おいで。怒られそうだけど、静華の部屋を見せてあげる」  そう言うと紗綾さんは立ち上がり、僕の腕を引っ張って、静華の部屋の前まで連れて行った。 「時間は有効活用しなくちゃね~」と明るい声を上げて、紗綾さんはドアノブをゆっくりと回す。 「うわ、すごい」  思わず声が洩れた。  扉の先には、六畳ほどの部屋には大き過ぎる本棚が、壁一面にびっちりと張り付いている。隙間を埋め尽くすように並んだ本は、ぱっと見ただけで何百冊以上にのぼる量だ。有名児童文庫シリーズから、本屋大賞、芥川、直木賞を受賞した作品、教科書に掲載されているような純文学やアニメ化された人気ライトノベルまで、幅広いジャンルの文庫、単行本が顔を揃えてこちらを見ている。 「でしょ。ここはあいつの秘密基地みたいな場所だから」  本棚の他にほとんど家具は置かれていない。学習机の上に白いノートパソコン。あとはベッドと、開きっぱなしのクローゼットの中に大きめのタンスが一つ。グレーの毛布が被さったベッドの上には、世界史の教科書が放ってある。  紗綾さんは徐に机の引き出しを開けて、ダブルクリップで留められた四〇〇字詰めの原稿用紙の束を僕に渡してきた。『夜を越えない』というタイトルから始まっていて、読み慣れた文章が静華の字で書き連ねられている。ぱらぱらと原稿用紙を捲ると、赤字で至る所に×が付けられていて、余白の部分に、訂正された文章が青字で書かれている。明朝体で打ち込み、プリンターで印刷した紙の束よりも、この原稿用紙は、何倍だって重たい気がした。 「普段はそうやって原稿用紙に書いて、ある程度まとまったら打ち込み作業してるっぽいよ。何か、原稿用紙なら授業中も書けるから嫌いじゃないんだってさ」  授業中、静華はこの原稿用紙に張り付いて、手のひらの黒鉛で真っ黒にしながら小説を書いていたのか。当たり前だけれど、クラスが違えば、そんな姿を見る機会なんて無かった。  だけど、どうしても僕の中から違和感は拭えない。紗綾さんが静華の話をする度に、僕は心臓を優しく抓られる心地になった。だから僕は紗綾さんに、「どうして静華はそこまでするんですか」と訊ねた。すると、紗綾さんは瞳を薄くして、 「静華はね、小説家になりたかったの」  と言った。  僕の中で、得体の知れない何かがぱちんと弾け飛んだ気がした。 「立花くん、その様子じゃ、全く聞かされてなかったわけね」  静華から「小説家」なんて言葉を、僕は一度たりとも聞いたことがない。 「いつから、ですか」 「ずっと昔だよ」 「ずっとって、高校入学してから?」 「ううん。違うよ。あいつ、小学生の頃、かなり内気な性格でね。友達もあんまり出来なかったみたいなの。だから、私が家に帰ると、いつも部屋に籠もって本ばっか読んでた。うち、あんまり裕福な家庭じゃないから、あの頃はまだこんなに本は揃ってなくて、学校図書館で借りた本をかじりつくように読んでたよ。まさに、本の虫って感じだった。暇さえあれば読書、暇が無くとも読書、ずーっと本を抱えてるような子ども、それが静華だからね。だけど、私も昔は調子乗ってて、静華とは喧嘩ばっかりしてたから、あんまり仲は良くなかったんだ。だけどね、私が大学生に、静華が高校生になった頃、静華から私に自分の悩みを打ち明けてくれたの。小学生の頃から、小説家を目指してること。それと、自分は同性愛者であること。まあ、後者の方はお父さんとお母さんは知らないし、私も静華も、今のところ両親には言うつもり無いんだけどね」 「でも、静華の同性愛は、嘘だったって言われました」 「あいつがそんな嘘付く奴だと思う?」  言葉に詰まる。端からわかっていたことだ。 「ちょっと聞いたよ。最近の、立花くんとの揉め事もね。あいつ、相談する相手、私ぐらいしかいないからさ。当事者じゃ無いから適当なこと言い過ぎるのはよくないけど、たとえ私があいつの立場でも、同じような嘘をつくと思うなぁ。だって、そうしないと辛いでしょ? 好きな人が自分を嫌いになりさえしてくれれば、それが一番楽に忘れられると思ったんだろうね。実際、そんなことはないんだけどさ」  紗綾さんが本棚から宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の文庫本を引き抜いて、僕へ差し出した。開いてみると、よれた紙に、鉛筆でいくつも書き込みがされている。鉛が擦れ、静華の葛藤が紙に浮かんでいるようだった。 「本気で目指さないと辿り着けない世界だから、才能がある限られた人間以外淘汰される世界だからって、今までずっと、必死に書き続けてきたんだと思う。自分には、これっぽっちも才能がないと気づいた時から、そうやって努力で差を埋めるしかないって思って、走り続けてきたんだよ、あいつはね」  ページをいくら捲っても、その書き込みは続いていた。まるで、走り続けるということを体現しているように僕の目には映った。 「静華が書かなくなったのは、きっと立花くんのせいじゃないよ。あいつは、あいつ自身で決めて、書くことを辞めたんだ。私ね、静華の作品はずっと読んでるから、びっくりしたんだ。『よるをしらないぼくたちは』。立花くんも読んだのかな。これまでの評価される小説じゃなく、小説家になるために、読者の心を掴む面白い作品が書きたいって言って、静華はあれを書き上げたの。でも、上手くはいかなかった。だけど、それだけで挫折して、諦めちゃうような軟な男なんかじゃない。あいつにとどめを刺したのは、コンクールの表彰式の朝に結果発表が行われた新人賞の方。静華は、そっちに『嘘の素肌』って作品を応募した。散々評価され続けた自分の武器を、最大限に詰め込んだ作品が『嘘の素肌』だったの。でも、それもダメだったみたい。静華は、そこで挫折したんだと思う。もう書くのを辞めるって言い出すあいつを、私は止められなかった。何も知らない分際で、あと少しだよ、なんて言えなかった。静華は逃げたんじゃ無い、逃げずに戦い続けて、燃え尽きちゃったんだよ、きっとね」  僕が愕然と立ち尽くす中、紗綾さんは、スリープ状態だった静華のパソコンを起動させた。 「さっきも言ったけど、うち裕福じゃないから、パソコンも姉弟で共用なの。まあ、私はレポート書くくらいでしか使わないから、普段は静華の部屋に置いてるんだけどね。私が機械弱いから、借りるときも静華のアカウントでサインインしてるんだけど、この間、間違えて課題用の資料をゴミ箱フォルダに入れちゃって、そこから資料取り出そうとした時に見つけたんだけど」  カーソルの先がゴミ箱フォルダをクリックし、エクスプローラーが開く。その中には、いくつもの書類やデータが並んでいる。紗綾さんは何も言わず、そこにあった〔わわわ〕というワードファイルを開いた。  一ページ目から、文字が画面を埋め尽くしている。小説ではないようだ。 「これはなんですか」 「たぶん、静華の日記。あいつ、抜けてるとこあるからさ。絶対私に見られたくないなら、ちゃんと削除しとけっての。まあ、本当はよくないかもしれないけど、きっと立花くんは、これを読むべき人だと思うから、だから私の勝手な許可で、これを読ませてあげる。読みたければ、の話だけど」  僕はゆっくりとその画面へと近づいて、震えた手でマウスを包み込む。ゆっくりとスクロールし、静華の書いた文字を目で追った。 【四月五日】  高校入学! 今日から日記をつけることにする。ありとあらゆる衝撃は、いつだって小説のネタになるから、書き残しておくべきだ。初日って書くことないな。まあ、短くても毎日書こうと思う。続くかな、いや、続けよう。 【四月一五日】 「文芸部」という部活があったので、仮入部した。正直、小説書くのに部活へ入る必要なんてないけど、良い影響を貰えるかもしれないと期待してはいる。だけど、仮入部初日は、「文芸部」なのに先輩たちは漫画やアニメの話ばかりしてた。なんか、うん。まあ、嫌だったら辞める。そのぐらいのスタンスでいこう。 【五月二二日】  小説サイトに掲載した新作が、過去一番ビュアー数多くて嬉しい。嬉しいけど、所詮気休め。新人賞の方は一次選考も通らない。顧問に、コンクール用の作品を書いてみないかと言われた。コンクールも所詮は気休め。売れたい。早く小説家になりたい。 【八月一日】  結局、高文連のコンクールでも、俺の作品は佳作にもならなかった。自信がどんどん削れてく。紗綾は面白いって言ってくれてるけど、やっぱりそれだけじゃ、足りない。 【十二月二四日】  新人賞の方はまた落選。何も、こんな日に選考結果を開示しなくたっていいのに。最悪のクリスマスプレゼントだ。高文連の方はどうだろう。夏の悔しさがまだ鮮明に残ってる。ああ、クリスマスイブまで小説のこととか、俺は一体何をしてるんだろう。これは、絶対に小説家にならなくちゃいけないな。なればきっと、彼氏もできる。彼氏とか書いてる時点で、この日記は誰にも見せられなくなる。黒歴史確定(笑) 【一月八日】  寒くなってきた。だけど、心がかなり温まる出来事があった。俺の作品が、高文連の準優秀を受賞。いや正直、嬉しくて仕方ない。小説家の夢に直結しないとはいえ、初めて人に認められた気がする。しかし、俺と同じく準優秀だった麻生って人の作品は、もう凄すぎて言葉も出ない。同級生で、まだ一年生なのに。何あの書き方。真似したくてもできない。憧れる。だから越えてみせる。やる気出てきた。 【二月一二日】  小説家を目指したいと思うほど、部活へ行く気がなくなる。今日も皆、雑談ばっかりだった。三年生は卒業して、部長も変わる。このやる気のない空気が変わらなければ、幽霊部員にもなろうかな。心から打ち解けられる人が、部活にはいない。小説家になりたいなんて言い出したら笑われそうで、嫌な空気だ。 【四月一九日】  俺と同学年の、元バンドマンが訳ありで文芸部へ入部してきた。あろうことか、俺は一目惚れをしたかもしれない。疲れてるのか。初めてだ。でも、この部活に吹いた新しい風だ。仲良くしてみたい。できるかな。 【五月一〇日】  蒼依のショートショートを読んだ。小説を初めて書いたと言ってた。言葉が出ない。蒼依は俺を「天才」とかいうけど、俺的には蒼依の方が「天才」だ。書こうと思ってさっと書いたものが面白いなんて、才能以外の何ものでもない。嫉妬。 【五月二八日】  蒼依に告白した。もちろん、付き合ってとかは言えなかったけど。好きだと伝えたのに、表情が歪まなかった。蒼依は俺と違って、こっち側じゃないのに。不思議な人だ。さらに好きになったかもしれない。 【八月五日】  高文連で最優秀を取った。信じられない。現実味がなくて、紗綾に話したとき泣いちゃった。なんでか紗綾も泣いてた。確かに、『夜を越えない』は自信作だったけど、それでも動揺してる。ずっと新人賞取れないままだけど、今日ぐらいは喜んでもいいのかな。もし、新人賞取ったら、嬉しさで泣き死ぬかもしれない。早く取りたいな、新人賞。 【九月九日】  二学期早々、停学くらった。親父と母さんには死ぬほど怒鳴られたけど、紗綾はなんでか笑って聞いてくれた。ずっと若林さんはしつこくて嫌いだったけど、今日の一言は許せない。何が「伊野くんの世界観を鮮明に映し出すのは小説じゃ限界がある。俺が力になりたい」だよ。俺の夢も知らないで。ふざけんな。まだむかつく。絶対小説家になってやる。そんなこと、二度と言えないぐらい高いところまで上り詰めてやる。あ、でもせっかく最優秀取った表彰式出れないのは辛い。もう殴らないように気を付けよう。俺、二重人格か? 【九月一八日】  麻生が去り際に言った言葉が忘れられない。俺にこそこそと話した「立花は逸材だな。小説書き始めて四カ月であれは、凡人には不可能だ」って言葉と、「才能は平等」って言葉。蒼依の話に関しては、嬉しさと悔しさが半分。神の麻生に蒼依は一目で認められた。天才が天才を認めた感じがする。だけど、二つ目の「才能は平等」には納得ができない。時間と才能は平等に与えられてるって、麻生らしいけど、それは麻生が天才だから言えるんだ。でも、蒼依の前だと、俺も天才のふりをしなきゃいけないから。弱いな、俺。だけど、好きな人に失望されたくない。ああ、恋愛と夢がぐちゃぐちゃになってないか。何か嫌だな、それ。 【九月二十九日】  今日は噂の菜々子ちゃんに会ってきた。思ってたよりも綺麗な子で、やっぱり嫉妬する。まあ、蒼依の彼女が可愛くなかった方が嫉妬するかも。本当に聴こえないみたいで、初対面の会話は少したどたどしくなっちゃった。でも蒼依は、慣れるまでそれを続けてきたんだと思うと感心する。蒼依がいなくなったタイミングで、菜々子ちゃんは俺に秘密の話をしてくれた。菜々子ちゃん、やっぱり歌ってる蒼依が好きみたい。俺は見たことないけど、きっとすごく格好良いんだろうな。菜々子ちゃんが、蒼依に歌うことを続けて欲しそうで、どうしてかその気持ち、俺にも伝わって、心がぐちゃぐちゃになったから、すぐに帰った。泣きながら帰った。俺の恋は難航しそうだ(笑) 【十一月一日】  文化祭初日。今日は若林さんの舞台を観に行った。やっぱり演劇ってすごい。若林さんは苦手だけど、あの人の才能は認めざるを得ない。良い影響を受けた気がする。そのあとは微妙な顔してる蒼依を連れて、軽音楽部のライブへ行った。もし、このライブで、また歌いたくなってくれたら嬉しかった。最近よく考える。蒼依は、本当に小説を書いてていいのかって。余計なお世話かもしれないけど、きっと菜々子ちゃんはまだ歌う蒼依を待ってる。ああ、だめだ。日記ってこんな気分落ち込むっけ。あ、今日は全く部誌が売れませんでした。明日は売れるといいな。 【十一月五日】  蒼依ん家にお泊り。夢のような時間だった。だけど、やっぱりちょっと悲しくなった。蒼依は全てを放り出して書ける人間だ。天才だから、良くも悪くも周りが見えなくなる節がある。だけど、恋に現を抜かしてる俺よりかはマシだ。余計なことばっかり考えてるから、新人賞が取れない。恋より夢。俺もこの日記書き終えたら新作を書く。二作書く。俺は絶対に、蒼依を越えてみせる。 【十一月二六日】  二作完成して、今日はそれを顧問と紗綾に読んでもらった。顧問は『嘘の素肌』を推してたけど、『よるをしらないぼくたちは』も面白いと言ってくれた。挑戦するか。高文連的には、絶対に『嘘の素肌』の方が評価されやすいだろうし、それぐらい自信作ではある。だけど、それじゃあ蒼依には追い付けない。面白くて、評価される方がいい。そう思ったから『よるをしらないぼくたちは』をコンクールへ提出してもらった。ただ、『嘘の素肌』だって気合は入ってる。だからこっちは新人賞。今度こそ、俺の武器が通用することを証明したい。挑戦か武器、どっちでもいいから、俺に自信を与えてくれ。 【一月八日】  明日は高文連の表彰式、行きたくないな。朝起きたら、新人賞の選考結果も出てる。あー。今日は日記をちゃんと書く気も起きない。寝よう。 【一月九日】  麻生に言われた通りだ。俺は全部中途半端だ。もう嫌だ。こんなに頑張ってんのに。全部が嫌だ。部活も辞めよう。認めてくれる場所へいこう。若林さんの脚本でも手伝おうかな。蒼依を裏切ることになるけど、もう蒼依の前で天才のふりをするのも疲れた。ごめんね。もう限界だよ、俺は。 【一月二四日】  最後まで蒼依には本音を言えなかった。自分を守るために、ゲイは嘘だとも言った。いつだってどっちつかずの俺は、大切なものを手放すべきだ。菜々子ちゃんと蒼依はきっと幸せになれる。俺が蒼依を小説の道に引きずり込んでしまったのかもしれない。もう手遅れかもな。でも、ようやく蒼依の前から姿を消すことで、俺は凡人として生きていける。蒼依の中で、俺は永遠に天才で生きていたい。失望されるくらいなら、俺は全てを隠したまま、逃げ出すことを選ぶ。小説家、なりたかったなぁ。悔しいや。 【一月二五日】  日記を書く理由もなくなったから、やめる。呆気ねえなぁ、青春。  飛ばし飛ばしで日記の文章を読んでいたはずなのに、僕の瞳からは、塞き止められないほどの涙が溢れ出していた。 ──蒼依の前だと、俺も天才のふりをしなきゃいけないから。  結局僕は、僕の中だけで伊野静華という理想を作り上げ、その結果、ずっと静華を「才能」という鎖で縛り続けていたんだ。あの、僕が静華に憧れを抱いた日から、静華は「天才」という呪いに憑りつかれていたんだ。  いつか、僕は静華に「才能」があるかどうかを訊いた。その時、静華は「そういうこと考えてると、いつまで経っても掴みたいもの掴めなくなるよ」と言っていたけれど、僕と違って、静華は明確に、掴みたいものがあったんだ。「誰かの為に書くなんて、本気で書きたい人たちからすれば迷惑なんじゃないかなって」と言ったことも、今では静華が僕へ残してくれた本音の部分だったと思い知らされる。  胸の奥から、形容しがたい痛みが湧き上がってくる。脈拍が上昇し、嗚咽に滲んだ声が洩れる。どうして気づけなかった。どうして僕は理解してあげることができなかった。可能性が無いわけじゃなかった。静華が努力でここまで辿り着いていた可能性。甘んじていた。伊野静華という人間の優しさに、僕はずっと、もたれ掛っていただけだったんだ。 「立花くんのこと、羨ましいって言ってたよ」  紗綾さんが背後から優しく声を落とす。僕は彼女の方を見ずに言葉を返す。 「どういう意味で、ですか」 「そりゃもちろん、才能の塊って意味もあるだろうけど、きっと静華は、誰かの為に書くことで輝ける立花くんが、まるでヒーローのようで羨ましかったんだと思う。あいつ、言ってたんだ。『俺には、蒼依と違って小説を書くことに大した理由は無いんだ。だけど、目指しちゃったから、憧れちゃったから、もう戻れないだけなのかもしれない。小説家の夢が。書くことから』ってね。でも、私は思うよ。何も間違ってない。誰かの為に書くことも、自分の為に書くことも」  静華の様々な表情が脳裏を駆け巡る。ああ、どうして僕がずっと静華の表情を読めないでいたのかわかってしまった。こんなに単純なことだったんだ。静華にとって一番表象頻度が高いはずの「悔し顔」を、僕は見たことが無いから不明瞭だったんだ。笑顔も、悲しい顔も、怒った顔も、諦めた顔だって知っていたけど、静華の根幹にある、網膜の裏側の景色を見つめている時の「悔し顔」だけは、僕は一度だって見せてもらったことはなかった。 「静華」  咽び泣く僕は、瞳を閉じて、彼の名を呼ぶ。嗅覚よりも、精神を刺激する嫌な香り。ああ、この部屋は、死んだ香りがしている。そして、苦しみが残響し続けている。僕はこの部屋をよく知っている。この香りがどこへも漏れ出さぬよう、静華はきつく、窓を締め切ってくれていたんだ。 「お二人さん、人の日記を盗み読みなんて、悪趣味じゃないかなぁ?」  静華の声が線のように僕の耳の穴へと刺さった。慌てて振り返ると、視線の先には、静華がドアに寄りかかって僕を見ていた。 「え、もう帰ったの。散歩は?」紗綾さんが言う。 「疲れたから戻ってきたの。そしたら何、これ。紗綾、勝手なことしすぎ」 「ごめんって。でも、隠しとくお前も悪い」 「まあ、そうかもなぁ」  静華が僕へ歩み寄ってくる。なんて声をかけたらいいんだろうか。 「蒼依」  名前を呼ばれた。たじろぐ僕に、静華は微笑む。 「悪いけど、もう帰ってくれない? ここは、蒼依の来る場所じゃないから」  表情は笑っている。いや、今ならはっきりとわかる。泣いているんだ。静華、そうやって僕の前で仮面を被り続ける必要はもう無いんだ。僕はもう、君の全てを知ったから、天才のふりなんかしなくていい。苦悩して、葛藤して、それでも足掻く伊野静華を、僕は知ることができた。 「おいお前、せっかく来てくれた立花くんにそれはないでしょ」 「紗綾が家に上げたんでしょ。俺は許可してねえっての。てか、蒼依が来ることも知らなかったし」 「まあまあまあまあ。ほら、送ってやんなよ」 「は?」  紗綾さんが静華の頭を掴んで、くしゃくしゃと後ろから撫でる。 「立花くんの家、そんな遠くないでしょ。夜中にチャリでかっ飛ばして向かうぐらいなんだから。後ろ乗せて、家まで送ってあげな」  小さく舌打ちを挟んだ静華が、「あーあ。わかったよ。ただ、帰ったら俺の部屋に勝手に蒼依を上げたこと、しっかり言及するからね。紗綾は覚悟しといて」と言って、机の引き出しから自転車の鍵を手に取った。 「任せなさい」  紗綾さんが、胸を拳でぽんと叩く。 「ほら、蒼依、さっさと行くよ。てか、なんで蒼依も制服なのさ。俺もだけど」  どうしてか、静華も制服を着ている。今日は土曜日なのに。 「そんなこと、今はどうだっていいよ」  ブレザーの袖が、涙と鼻水で薄らと白く汚れている。それでも僕は、絶えず溢れ出る涙たちを袖で何度も拭い続ける。 「じゃあ、チャリ漕ぎながら聞かせてよ。ちなみに俺は、なんとなくだ」 「静華らしいや」  僕は静華に連れられて、自転車の荷台に腰を下ろした。  自転車の車輪が勢いよく回りだす。寒風が肌を撫ぜ、静華の匂いを纏った空気が僕の鼻腔をつつく。舗装されたアスファルトの上を、僕らを乗せた自転車は駆け抜けていく。静華の腹部に回した僕の腕が、もう二度と彼を離しはしないと言わんばかりに、強く繋がれている。  昼間の太陽は、冷たさの中でも燦々と僕らを照らしてくれている。静華の、少し遊んだ茶色い毛先が、その光に紛れてぴかぴかと反射しているように見えた。僕にはそれが何よりも眩しくて、美しく思えた。
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