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 青白い陽光に照らされた菫が、まばらに地面を彩っている。いつか、まだここが土と緑しかなかった頃に、静華と夜通し散歩をした。数ヶ月前の話なのに、どうしてかそのことが、もう何年も昔のことのように思えてくる。  足下に咲く菫と、朝顔の葉で作られた緑のカーテンが僕と静華を二人きりにした。僕は膝を折ってしゃがみ込み、菫の蜜房に優しく触れる。この蜜房と呼ばれる部分で菫は蜜を分泌し、昆虫はこの蜜を求めて花の中に入り込む。すると昆虫は身体中が花粉まみれになって、花粉まみれの昆虫が次の花に移ることで受粉するという仕組みがあるという。菫好きの菜々子が僕に教えてくれたこと。僕は今でも、彼女が自慢げに知識をひけらかす様子を鮮明に覚えている。  爽やかな甘い菫の香りと、静華が吸う煙草の芳香が僕の鼻腔を蕩かす。 「蒼依が言ってた通り、綺麗だね。この菫が咲く庭も」  唇の隙間から白い煙を零し、静華は細く息を吐く。 「でしょ。お気に入りの場所なんだ。あ、送ってくれてありがとう」 「いや、こちらこそ。一度は見ておきたかったから、ちょうど良かったよ」  立ち上がった僕は、菫から目を離して静華を見た。静華は僕を見ていない。 「菫の花言葉を知ってる?」質問を投げても、彼の首はこちらへ向かない。 「さあ」 「謙虚、誠実、小さな幸せ」 「物知りだね、蒼依は」 「菜々子が教えてくれたんだ」 「花言葉を教えてくれる恋人なんて、映画みたいだね」  恋人、恋人、恋人。静華の声が脳内で反芻される。いつか、三人で菫を見に行こうと約束をした。もう二度と、叶うことはない。 「……僕は、小さな幸せを見失っていたんだ」 「というと?」 「菫の開花時期は三月から五月。ちょうど桜が咲く頃に菫は咲く。空を見上げれば頭上には大きく鮮やかな桃色が舞っていて、その麓で、ひっそりと、力強く菫は咲いている。誰にも知られず、それでも美しく。僕はそんな菫が好きで、大切だったはずなのに、わかりやすい鮮やかさに目や気を奪われて、見失った。  静華を桜だと思ってた。でも、それが結果として静華を苦しめていた。想像もしなかったんだ。静華は菫だった。僕が大好きな、菫だったなんて」 「いつの間にか、蒼依は詩人になったんだね。もうすっかり文芸部って感じだ。俺は嬉しいよ」静華が煙草をくわえて息を吸う。尖端の葉がちりちりと焼けていく。「ただ、俺が桜だとか菫だとか、そんなのはもう過ぎたことだよ。日記を読まれちゃった時点でさ。だからあんまり気にしなくていいよ」 「僕は文芸部じゃないよ」 「あらら、どうして」 「菜々子と別れたんだ」  唐突に事実をぶつけても、彼は狼狽えない。「そっか。それで?」 「それで、やっぱり歌うことにしたんだ」 「つまり」 「ああ。小説は、もう書かない」  静華が指の間から火種のついた煙草を落とし、つま先でぐりぐりと火を消した。そして、フィルターごと押しつぶれた吸殻を拾い、「相変わらず勝手な奴だなぁ」と大きく笑った。 「ああ、勝手だよ」 「じゃあ、俺と一緒に小説引退ってわけだな。お揃いじゃんか」 「ごめん、静華。僕と君は、お揃いなんかじゃない」 「何が違うのさ」 「静華は、書くことが好きだ。僕と違って、書くことそのものを愛することができる人だ。情けないけど、僕は菜々子という書く理由を失って、もう何一つアイデアも出てこないし、書きたいとも思わなくなった。所詮、僕にとっては書くことなんてその程度だったんだ」 「勿体ない。蒼依は、書き続ければ良い線いくのに」 「それでも、やっぱり僕は歌うのが好きだから」 「ごめん。芯がぶれてて、その決意表明は全然格好良くなんかないよ」 「そうだね」 「まあ、蒼依の好きにしなよ。蒼依が歌おうと書かなくなろうと、俺が書く理由になったりはしないんだし」 「どうして」 「んー。挫折したから。書けなくなるには、申し分ないほどの挫折が揃っちまったんよ」 「まだ進めるよ、静華なら」 「適当なこと言うなって。俺、疲れたんだ。これ以上は進めないんだよ」  この期に及んでも、静華は表情を無理に緩ませ続けている。もう、僕の前でそんな顔をする必要は無いのに。 「書けよ」 「嫌だね」  飄々とした様を壊すべく、僕はあえて、仰々しく声を荒げる。「書けよ!」 「怒鳴るなって、響くから」 「僕は静華にこのまま嫌われたっていい。僕と静華の関係がどうなったってかまわない。だけど、今ここで、君を強引に書くことへ引き留められるのは僕しかいない気がするんだ。だから、僕は周りにどう思われようと、静華を無理矢理にでも前へ進ませたい」 「理解できねえっての」 「静華、もうその顔やめてよ」  瞼を薄くして、口角を無理に上げた、笑顔に似ているけど少し違う、気の抜けたような見慣れた表情。 「俺はこの顔しか持ってないよ」 「そうじゃなくて、僕の前では、もう強い静華でいなくていいんだ。たまには、僕にだって見せてよ。僕らの関係は師弟より、ライバルより、恋愛より、部員よりも、友達だったじゃないか。ねえ、静華。もうそんなに辛い瞳で笑わないでよ。僕は、静華のどんな表情だって受け止める。今の僕になら、それができるから」 「やっさしいなぁ」  静華が空を仰いだ。爽やかな青空が広がっている。雲一つない、そう言いたいけれど、小さな浮雲がちらほらと上空を優しく漂っている。それでも、青空であることには変わりない。  静華は、笑いながら泣いていた。目尻から一筋の線がきらりと光り、流れ落ちていく。涙を流す時まで笑うなんて。僕は、静華を見つめる。 「蒼依はさぁ」 「うん」 「ずっと俺の憧れだったんだ」 「今でも信じ難いよ。そんなことは」 「だろうなぁ。でも、俺にとって蒼依は、全部が主人公だったんだ。出逢った時から、今の今まで。菜々子ちゃんが中途失聴者になったことも、バンドを辞めた過去があることも、お母さんが鬱病を患ってることも、父親が作家なことも、いきなり麻生や若林さんに噛み付いちゃうことも、全部、主人公でさ。蒼依をそのまま書けば、まるで一つの作品になりそうなくらい、色鮮やかで劇的な人間なんだ、俺からすればな。がむしゃらに突き進む姿はまるで、甲高い汽笛を鳴らしながら走り続ける汽車みたいに見えた。大きくて、格好良かったんだよ。  そして、蒼依には才能があった。蒼依、昔、俺が曖昧なまま答えずに逃げた質問、今なら答えられるよ。俺にとって、才能は蒼依そのものだ。蒼依の生き方や、考え方、評価されるそのすべてが、俺にとっては才能そのものだったんだ。そんな蒼依に認められて、天才と呼ばれてさ、ひたすら苦しかったなぁ、この一年間。本当は努力してる姿を見てもらって、作り物じゃない俺の姿を認めてもらいたいのに、蒼依はきっと、才能にしか引き寄せられないから、そんな姿を見せることができないまま、時間だけが流れていったよ。  俺はただ、離れて欲しくなかった。だって俺、蒼依のこと好きだったからさ。ずっと蒼依のせいにしてきたけど、こんな凡人の姿を隠し通した俺が悪かったんだ。もう、戻れないくらいの距離が開いちゃったな。これが一番嫌だったのに、おかしいや」  静華の涙が綻んだ横顔と相反して流れ続けるのをこれ以上見たくなくて、僕は、静華を思いっきり抱きしめた。頭に手を回し、強く、強く、抱きしめる。これだけ近づいてようやく分かったことがある。静華の身体は、僕の想像よりも小さかった。 「離してよ。どういうつもりなのさ」 「離すもんか。そんな顔、見せられ続けるぐらいなら、僕はずっとこうしてるよ」 「狡いなぁ」  静華が頻繁に鼻を啜る音が響く。 「僕は思うんだ。理解は、いつだって九九パーセントで歩みを止めるって」  身体を小刻みに震わせながら、涙をぽたぽたと僕の肩に零す静華の頭を、ゆっくりとさすりながら話す。 「今になっても、どうして静華が僕なんかのことを好きでいてくれたのか、正直理解できない。言ってしまえば、僕は同性を好きになる気持ち、まだ全然理解できていないんだ。菜々子の聴こえなくなった耳も、麻生みたいな天才の言うことも、部長が何をしたいのかも、若林さんの価値観も、理解しようとしたって、何一つ完璧に理解なんてできてなかったなって。だから、心のどこかで諦めてたんだ。皆のこと、理解することを。だけど、静華だけは違った。憧れて、届きたくて、静華の見ている景色を見てみたくて、九九パーセントの理解を越えて、僕は静華を、一〇〇パーセント理解しようとしたんだ。そんな日々があったから、僕は、今君を抱きしめていられるわけで。だけど、僕の安易な考えが、無意識に君の大切な部分に土足で足を踏み入れていた。傲慢だったね。全てを理解するなんて、できるわけもないのに。だからこうして、僕らは壊れてしまったんだ」  僕の腕の中で、静華は黙り込んでいる。こんなに傷だらけの身体で、彼はよくここまで歩いてきたのだと思うと、僕の静華を包む腕は解き方を忘れてしまう。  僕は考える。一度止めた歩みの中で、あの頃と同じスピードで再び走る力が、高校生の未熟な僕らには備わっていないとしても。 「でもさ」  それでも、もし、二人が前へ進み続ければ、 「沢山挫折を繰り返した今なら、僕ら、たった一つに向き合えるんじゃないかな」  いつかもう一度、出逢えるようにできている。 「僕は歌で、君は小説で」  きっとこの世界は、そういう風にできているから。 「ゆっくりでいいから。僕ら、何かを急ぎ過ぎていたんだ」  どうしてそう思うかなんて、 「何も、恐くないよ」  だって、僕は君へ憧れる気持ち、 「静華は、書くことが大好きなんだから」  今も、変わらず僕の中に残り続けているから。 「蒼依」 「なに」 「俺、やっぱこのままじゃ悔しいなぁ」  下唇を噛むようにして、僕は涙を堪えた。今は静華が泣く番だ。僕が泣いちゃいけないんだ。  僕が腕を解くと、静華は本当に悔しそうな顔で泣いていた。この表情だ。僕がずっと探していたもの。僕があの日、見たいと思った景色を見ていた静華の顔。美しかった。涙で濡れた瞳は、いつにもましてきらきらと輝いている。 「なら書いてよ。いつか、こんな僕らの話も。静華なら、きっと上手く書けるから」  指の腹で涙の痕が浮き上がる静華の頬をそっと撫でた。「恥ずかしいからやめろよなぁ」と泣き笑うその顔を見て、僕はどうしようもないほど愛しいと思った。そこに何一つ、違和感を覚える暇すら無いほどに。
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